Zen2.0 Meet Up! 対談 「禅とAI」シンギュラリティの 先にあるものとは?

01/23/2018

ITジャーナリスト湯川鶴章氏 × 北鎌倉円覚寺 横田南嶺管長

2017年11月11日、北鎌倉円覚寺にて本対談イベントが開催された。日本をはじめ世界中のAI研究者にインタビューを重ね、最先端のAIトレンドから、シンギュラリティの先にあるものを探っているITジャーナリストの湯川鶴章氏と、人間の「心」に1000年以上にわたって対峙してきた「禅」の伝統を継承しつつ、様々な異分野の論客との対話を重ねている北鎌倉円覚寺の横田南嶺管長にご登壇・対談いただいた。AIと人間のこれからの関係、シンギュラリティ、そしてその先にあるものを、禅という視座を通して探っていく試みである。

「シンギュラリティ」とは、人類全体の知能をAIが超える技術的特異点のこと。近年のディープラーニング技術の急速な発展により、2045年頃には世界はシンギュラリティを迎えるといわれている。特異点を越えると人類はもはやAIを制御できなくなり、AIがついには人類を滅亡させるのではないかという議論も起こっているが、日本でよく聞かれるのは、AIが人間の仕事を奪うのか、という議論であろう。

AIについて考えることは、「人間とは何か」「心とは、意識とは何か」「人間らしさとは何か」ということを考えること

冒頭、参加者全員での般若心経の読経と座禅が行われた後、横田南嶺管長の講演が行われた。横田管長は最初に、自身の講演のテーマである「これからの時代に求められる禅とは」というテーマについてユーモアたっぷりに「私の知ったことではない」と述べ会場の笑いを誘った。

禅問答について書かれた書物が1700人の僧侶の回答集であることを例にあげ、「人の数だけ禅とは何かという回答がある。禅とは即ち、一人一人の生き方である。禅という物体のような存在がどこかにあって、台風の進路を予測するがごとくその行き先を予測する、ということは私にはできない。ここにいる100名近くの参加者たちは、100名がそれぞれに自分の好きなように生きていくしかない」と。

横田管長は、以前AIの専門家が集まる会合に呼ばれて講演をしたことがあったそうだが、AIについて考えることは、結局のところ、「人間とは何か」「心とは、意識とは何か」「人間らしさとは何か」ということを考えることであったと言う。「仏とは何であるか」それは人とし人の尊さなり。つまり、仏とは、本当に人間としての尊さに目覚めて人間らしく生きることであると。

人間らしさとは何だろうか。何をせずとも、何も考えなくてもただ身体が無意識にバランスをとろうとする

横田管長は小学生の頃から現在まで40年近く座禅をしてきた。「座禅中に、禅とは何か、人間とは何か、という考えが浮かぶこともあるが、果たしてこのように頭で考えることは真なのか? 」。最近熱中しているというバランスボードを例にとって、「バランスボードに乗っていると、頭で考えたことはすぐに否定される。何をせずとも、何も考えなくてもただ身体が無意識にバランスをとろうとする。そちらの方が真なのではないか」。

続けて、道謙禅師の逸話をあげられた。道謙禅師が、禅とは「著衣喫飯(じゃくえつきつぱん)、あし放尿(あしほうにょう)、箇の死屍を駄せて路上に行く」つまりは「自分で衣を着て、食物を食べ、大便をし、小便をし、自分の体を自分で動かす」、ただこのことのみだと悟った、というお話だ。

AIが人間の代わりに多くのことをしてくれたとしても残るもの

横田管長はまた、「臨済録」(臨済宗の開祖である臨済義玄の語録)の中に、目でもの見ること、耳で音を聞くこと、鼻で匂いを嗅ぐこと、舌で味わうこと、手でものをつかむこと、足で体を運ぶこと、これらは元々ひとつである。一つの意思、心、生命。これが6つの器官を通して働いている、これが命であり、心であると書かれている、というお話をされた。将来AIが人間の代わりに色々なことをやってくれたとしても、この5つ、ないし6つは残るのではないか、とのことであった。

最後に、文筆家小出瑤子さんの「ただ生きる」という詩を紹介された。横田管長はこれまでずっとじっと坐って坐禅をすることによって体を整えようとしてきたが、その以前に既にすべては整えられていて、自分の身体が精妙なバランスをとっているということにようやく今気づかれた、というお話をして締めくくられた。

「AIと悟り」と題した湯川氏の講演ではまず、湯川氏の持論は脇に置き、現在行われている最新の研究や論文についてひと通りの知識の共有が行われた。近年AIの性能は急激に進歩し、認識能力については既に人間を超えている場合もある。元来AIは製作された後に学習期間が必要であったが、バーチャル空間で複数コピーをして学習させた後に実装することで、劇的にコストが削減されたことも影響している。機械化はブルーカラーの仕事を奪ったが、AIはホワイトカラーの仕事を奪う、ということがささやかれてきたが、そんな世界も間近になってきたのだろうか。

その後、Zen2.0実行委員会の宍戸幹央氏と松島倫明氏をファシリテーターとして迎えたパネルディスカッションで湯川氏の私見が述べられ、横田管長との対談へ。

人間はより「今ここ」に集中してマインドフルネスな生活を送れるだろうか

シンギュラリティ、即ちAIが人間の能力を超えた後、AIは私たちの仕事を奪い、ひいては人間を滅ぼすのか?湯川氏の答えは、「急に仕事がなくなることはないのとちゃうの。ようわからんけど」ということだった。

例えば曲を自動で奏でるピアノがあるが、機械が弾いた演奏に感動するだろうか?テレビ番組でカラオケマシーンの得点を競う番組があるが、マシーンが高得点を出した歌い手が必ず人気歌手になるだろうか?答えは否である。技術的にはAI化できる作業であったとしても、それらすべてをAIに代替することが必ずしも最良の方策であるとは限らない。AIは知識や情報処理能力、分析力、データを元にした未来予測などの表層の部分は人より優れているが、心の深層の部分をAIにインプットするアルゴリズムはないため、その部分において人間を超えることは起こり得ない。

また、AIは統計的にみてリスクがあることはやらないであろう。例えば誰かが、起業をしよう!と思い立った時、その時に導き出された、その事業が成功する確率がわずか数%だった場合、AIは思いとどまるだろうが、起業したいと思った人はそれでも起業するだろう。リスクを避けるという常識的な行動規範ではない「何か」が人を動かしているためだ。

だが、人の心を動かすこの「何か」はまさに、上述のAIにインプットできない部分にあるのではないか。その結果、技術的にはAIが行えるはずの仕事も、結局はやらない(やらせない)ということに落ち着くのではないだろうか。逆に、記憶や情報処理、過去のデータの分析による未来予測といった分野はすべてAIに任せて、人間はより「今ここ」に集中してマインドフルネスな生活を送れるだろうというのが湯川氏独自の分析である。

湯川氏は以前、AIが私たちの日常に入ってきた時、人は2つのパターンに分かれていくだろうと分析していた。1つはバーチャルの世界にどっぷりはまっていくタイプ。もうひとつは人間としての感覚に目覚めていくタイプ。

後者がどういうことかというと、例えば、9月のZen2.0の会場となった建長寺、また今回のMeet Upの会場となった円覚寺の場の心地良さ。この心地良さはその場にいなければ感じることができないし、どんなに良い写真を撮ってSNSに「気持ちよい場所だった」などとコメントを添えて投稿しても本当の意味でその場の空気を読者と共有することはできない。つまり、今この瞬間を感じることに目覚めていくタイプである。マインドフルネス、と言い換えてもよいかもしれない。

人間の脳の最適化ははるか昔に既に終わっていて、その後も思考に偏って進化してしまった現代人の脳は今袋小路に入っているのかもしれない

横田管長も湯川氏も、AIを考えることは(人の滅びを考えるのではなく)「人間とは何か」「心とは何か」「意識とは何か」を考えることであると述べている。そして湯川氏はAIの知能が人間を超えた時、人は今現在により集中することで、よりマインドフルネスになることができ、さらには将来的にAIが心を持つ時代が到来した時、人はもはや心を持つことをも超えて、無我の境地に至るのでは?との持論を展開した。つまりはAIによって人の悟りが促される、というのだ。非常に興味深い考察である。

それに対する横田管長の回答は、悟った、と思ったらそれは悟りではない、とのことで、こちらもなるほど、と唸らせられる応答であった。

AIという文脈からは少しそれるかもしれないが、湯川氏が紹介した2人の著名な人物の言葉が印象的であったので紹介したい。

ひとつめは、日本の脳科学界の権威である甘利俊一博士の「人間の脳の最適化ははるか昔に既に終わっていて、その後も思考に偏って進化してしまった現代人の脳は今袋小路に入っているのかもしれない」というインタビューである。人の脳は最適な状態まで発達した後も異常発達を続けてしまった結果、現代人の脳は袋小路に入ってしまった。これが現代社会に生きる私たちの心や精神状態に様々な弊害を及ぼしているという仮説である。湯川氏によると、この状態を可能な限り最適な状態に近づくように調整するのが座禅や瞑想なのではないか、というのである。

もう一方は、英国の経済学者ケインズの、「(資本主義が進んでいくと)我々はもう一度、手段よりも目的を評価し、効用よりも善を選ぶようになる。われわれはこの時間、この一日の高潔で上手な過ごし方を教示してくれることができる人、物事の中に直接のよろこびを見出すことができる人、汗して働くことも紡ぐこともしない野の百合のような人を尊敬するようになる」という言葉である。

ケインズは80年も前に、物質的な豊かさを手に入れるための仕組みである経済システムに執着する社会はいずれ過ぎてゆき、やがて人々はそもそもの目的の方へ目を向けるようになり、よりシンプルな、また善い心を持つことを評価する社会へと移行していくだろうと言っていたのだ。

幸か不幸か私たちは今、その過渡期に生きているようだ。金(ビジネス)の時代と心の時代の過渡期だ。その過渡期において、私たちはどのように生きていけばよいのか。湯川氏は幕末の志士たちの例を紹介し、武士の時代に生きた志士たちは全員当然、剣の達人であった。と同時に商いの達人でもあった。私たちはこのように、心の時代への移行期であったとしても、ビジネスの達人でもなければ生きていけない。心あるビジネスをやればよいのである、というのが湯川氏からのアドバイスである。

人の心の深層部分にある愛

横田管長は、AIを考えることは本当の知とは何であるかを直接に示してくれる、ともおっしゃった。また、悟りとは100%の慈愛の心に満ちることに他ならないと断言された。その慈愛は心の表層の部分から生まれるのではなく、深い深層の部分から生まれる。深い部分では対立する物も争うものもなく全体性があるのみである。表面的な部分で争っていることの愚かさに一刻も早く気づくことが重要であると。

一方湯川氏は瞑想中、愛で満たされた感覚になり、自分の本質は慈愛なんだということに気づくという。それに気づくと、表層の部分も変わっていくのだと。

二人の意見に共通するのは、人間の心には表層部分だけでなく、深層部分があって、その部分からたち現れるものによって、人は心を動かされる、あるいは行動を起こす。この部分のロジックを見つけてデータ化する技術がない限り、AIが心を持つことはないであろうし、人の仕事を直ちに奪いつくすことはないだろう。また、人の心の深層部分にあるのは愛であろうということだ。

一人ひとりが優しい顔になり、優しい眼差しを向け、優しい言葉をかけるようになることが、仏になる道である、という横田管長の言葉で対談が締めくくられた。
講演前に筆者が思い浮かべていた悲観的な妄想を温かく包み込む、愛にあふれた対談であった。

数百年かの後、AIに人の心の深層部分をインプットするアルゴリズムが開発された場合、人の本質は愛であるということを知る人間にインプットしてもらいたいと切に願う。その時AIは心を持つかもしれない。AI=愛となり、人の心の深層部分にある全体性の世界(慈愛に満ちた世界)と、個別の世界(自と他の差別が存在する世界)を平行して存在させることができるようになった人間たちと共存している世界を想像した。その頃私は既にこの世にはいなさそうだが、後世の人たちがそのような世界に生きられるのかどうかは、過渡期の私たちの今の生き方にかかっているであろう。

Zen2.0 Webサイト

文=井上 美智子
編集=二藤部 知哉
写真=吉田 貴洋