2016年10月30日、北鎌倉円覚寺佛日庵にて鎌倉会議が開催された。「二つの宇宙(内的宇宙と身体宇宙)」をコンセプトに登壇者、専門家や各界で活躍する60名の参加者と共に、これからの「心」と「身体」を対話を通して考えていく。
午後の部(テーマ: 内的宇宙)
1:27:02 | 藤田一照さん 「禅の宇宙 無とは何か?」 |
2:17:19 | 長沼敬憲さん 「腸脳力と直感力」 |
2:38:33 | 横山十祉子さん 「対話」 |
2:44:50 | 三木康司さん 「ZEN2.0〜鎌倉から禅の文化を世界に〜」 |
2:59:28 | 前野隆司さん 「脳と身体 人間に秘められた可能性」 |
午後の部 テーマ: 内的宇宙
司会:それでは、場が整ったところで、午後の部スタートしたいと思います。午後のトップバッターはですね、曹洞宗国際センター所長でいらっしゃいます、藤田一照様でございます。講演のタイトルは、「禅の宇宙 無とはなにか?」というタイトルで講演をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いします。
藤田:はい。みなさんこんにちは。藤田一照です。タイトル、禅の宇宙、無とはなにかって、僕がいったんでしたっけね?(一同笑)いや、いいんですけど、無ですからなんでもしゃべっていいっていうことだと思います。まあその題を言っとけば、なにしゃべっても、最後は無で終わるのでいいかなと思います。20分まででしたか。他の人は圧縮された時間で濃い内容を、圧縮された形でお話されたんで、僕なんでこんなに長い時間もらえるかわからないんですけど、せっかく与えられた時間ですので、話と、それからイス瞑想っていうか、イスの上での瞑想の指導みたいなのもやってくださいというリクエストでしたので、それにお応えする形でお話させていただければと思います。最初に動いた方が、…でもみなさんかなり午前中に歩いているんで、大分いきなり始めるのよりは大分場が違っているのでね、話す中でワークというかエクササイズなんかをしながら、すすめていきたいと思います。禅っていうと、日本人だと禅っていうと何かイメージがわきますよね、禅。それぞれイメージがあると思いますけどね、どんなイメージが湧きますか?禅って。勉強してなくても禅っていう響きはなんかのイメージを喚起すると思うんです。何人かの方に効いてみたいと思うんですけどね、What is “ZEN” for you?
A:石庭。
藤田:あ、石庭ね。ちょっと書かせていただきましょうか。はい。(書く)石庭、禅。ほかに。
B:悟り。
藤田:悟り、はい。
C:禅問答。
藤田:禅問答ね。
D:座禅。
藤田:はい。
E:警策。
藤田:ああ警策。警策ってわかりますかね。お子さんがよく、だいたいコマーシャルにこれがでてきて、吉永さゆりも殴られる、たたかれてましたからね。(一同笑)もうひとりどうですかね。なんか、えっていう、面白いの、別に面白くなくてもいいんですけど。はい。
F:一休さん。
藤田:一休さんね。人が出てきましたね。
G:星野先達
藤田:あ、星野先達ですか。なるほど。はいはい。多分ひとりひとりいったら全員答えられるくらい、何らかのイメージ、禅って言うのはあると思いますね。で僕も禅っていうとこのくらいの知識っていうか、言葉としては知っていたんですけど、まさか自分がその中に飛び込むことになるっていうのは全然、全然考えていませんでした。(一同笑)
実はこの円覚寺って、僕が座禅を始めた場所だったんですね。へえ、へえって、はい、そうなんですよ。ここに居士林っていう、居士っていうのは、在家の禅の修行者のことを居士っていいます。りんっていうのは、大体禅の修行道場って山とかなんとか山とかなんとか林っていう風に、例え町の中にあっても自然の中にあるっていう、想定されるような名前がついています。大体お寺はなんとか山、なんとか林、なんとか寺っていうんですね。ぼくは最終的に出家を決意して、得度したお寺は、紫竹林安泰寺っていうところですね。紫の、かっこいいですよね、紫竹林安泰寺っていうお寺でした。
こう林っていうのがついた、山っていうのがついた、ですね。やっぱり”GO WILD”、町にいても”GO WILD”みたいなことがあるのかもしれない。今日の無理矢理松島さんのにひっかけていうと、多分そういうことだと思います。で、居士林っていうのがここにあります。鈴木大拙、夏目漱石なんかも、門の中に居士林で座禅やったっていうようなことが書いてありますし、多分そうそうたる人たちが長い、かなり古い歴史を持っているので、ここで居士林で修行したっていう方が多いと思いますね。
在家の方が、普通の出家者は僧堂っていうところで修行するんです。これ禅宗の修行の特徴で、僧堂っていって、出家した雲水といわれてる人たちが、雲と水ですね。これもシンボルですよね。雲、水形がない、それから自由にどこにも捕われずに法を求めて、あるいは正しい死を求めて自由に動く回るっていうようなイメージで雲と水で雲水っていうことですね。これも”GO WILD”のあれだと思いますけど、リマインドさせてくれるような言葉だと思いますけれども。雲水さんは僧堂で日常生活を共にしながら、指導者のもとで生活ぐるみで修行していくんですけれども、居士っていうのは仕事を持っていたり、家庭をもっていたりするので、そういうことができないんですけれど、一時的に、今あのプチっていうことばが、プチ出家をして、居士林っていうところに寝泊まりしながら僧堂で修行している雲水さんが、僕初めてやったときは2人ほどこられて、その僧堂に準ずるような生活をさしていただける場所が居士林なんですね。
あんまりどのお寺でもどの道場でも居士林ってあるところが割と少なくて、円覚寺の居士林、居士林っていったら円覚寺か、あの延暦寺にもあるんですね。天台宗の延暦寺にも居士林っていうのがあるんですけどあんまりどこでもあるようなものではないんですけど。27歳のときに、ある方の勧めで一番厳しいと言われている12月の1週間の居士林の、学生接し心、いろんな大学の座禅クラブっていうんですか、座禅部っていうのが、その学生たちがクラブみたいな形で座禅をやっているひとたちが、ここ居士林を使わせていただいて、学生接心っていうのをやってるから、そこで座ってみなさいっていうことで座りました。
その、僕に言ってくれた方っていうのは、漢方医学の実践者で、自分で塾も作って、鍼灸や漢方薬をやるような人を育てることをやってたんですね。僕はあるとき、その方の公開講座を聴いて、当時は臨床心理学、特に子どもの臨床心理学をやろうと思って大学院生でいたんですけど、もう心理学があまりにも無力なんですね、現実の、なんとか援助をしたいというような子どもたちの取り巻いてる状況のヘビーさに比べると、心理学って本当に無力な、僕が無力なんですけど、その心理学のせいにしてたって今わかりますけど、僕も無力だし、学んでることも、あんまり助けになっていないっていう気がしていたので、医学部でも入り直して、精神医学でもやろうかと思って、その精神学者の、児童精神科医っていうひとたちがやってるところにいったりしてたんですけど、そこでやられてることも、まあその先生たちはみんな真面目にやられてる方々だったんですけど、現場の感じっていうのがどうも僕がやりたいようなやる気が起こるような状況ではなかったので、どうしようかなっていうことですね。
迷っているときに、たまたま漢方医学の公開講座があるよって知らせてくれた方がいて、それを聞いたら、僕が心理学にも、それから精神医学にも足りないと思っていたようなことが、漢方医学の中にあるっていうことが直感的にわかったので、その先生に公開講座終わったあとすぐ先生の後にすぐいって、先生について習いたいですって言ったら、わしの医学は、禅が基盤になってるから、禅の修行をまずしてもらわないと、弟子にはできないよっていう話で、じゃあ禅の修行って何をしたらいいんですかって言ったら、座禅をすると。でいい場所が鎌倉にあると。わしもずっと学生のときからやってて、今でもやっているっていう話でして。
ですので僕が禅に近づいたのは自発的に行ったんじゃなくて、人に言われて行ったんですね。実際その円覚寺の居士林に飛びこんで1週間もやると、もう、なんていうんですかね、僕は多分通いで座禅会に通ってたら、こんなもんかっつってすぐ辞めたんでしょうけど、最初に1週間缶詰になって、ぼろぼろにされたっていうんですかね。あの、その先達の山伏修行じゃないですけど、何にも知らずに準備もなしにいきなり飛び込んで、最初の一声が「ここは、己を磨くところである。」死ぬ覚悟がないやつは帰れ!って言われまして(笑)ないんですけど?っていう感じですよね。(一同笑)
人に言われてきましたっていう感じですよね。そのとき、はいって2人立ち上がって帰りましたね。勇気あるなと思いましたね。僕はその勇気はなかったし、足しびれきってて立てなかったですよ(一同笑)
それでまあ、なんとかなるだろうと思って、体力には自信があったので。だけどまず座るのが大変。足は痛いし、それから眠たいし、それから僕、動くのが好きなんですけど、まあみたら分かると思うんですけど、じっとしてるのがものすごく苦痛ですよね。それから昼夜逆転の学生生活を送ってたんで、スケジュールがびっしりなんですけど、まったく僕の当時の性情とは合わないっていうんで、もうぼろぼろになりましたね、肉体的にも精神的にもぼろぼろになりました。でも、帰らない以上はスケジュールに従わなければいけないので、従っていくわけなんですけどね。
でも頭の中は帰れ、こんなの意味ない、時間の無駄だって、お前の友達は何してる?飲んでるよ、彼女とデートしてるよとか勉強してるよとかっていっぱい聞こえるわけですよね。ああこれか、仏陀が座ったときに悪魔がいろいろ誘惑したのはっていう。ので、仏陀に共感を覚えたっていうくらいですね。(一同笑)
ほんとにいろんな声が聞こえるんですね。3日目くらいまでは。で4日目くらいになると、またおんなじ声が聞こえる、またお前かみたいな感じですね。みてると、同じパターンでくるんですね。いろいろ、そういう話になると、それでもう僕の時間は終わってしまうのでやめますけど、とにかく自分が普段、普段もそうなんですけど、普段忙しくしてるせいで、みてないものをこれでもかっていうくらいに見せられる。自分のおぞましさっていうか浅ましさ、いじましさみたいなのが見せつけられるわけですね。
それでも座ってなきゃいけない。で座るのも楽ならいいけど、足は痛いし肩こるし、腰はいたいしって。動くと怒鳴られるかたたかれるかでしょ。もうにっちもさっちもいかなくなるっていう感じですね。で、後半になるとちょっと変わってくるんですね。で、お前にはこれは必要なんじゃないかっていう声が聞こえてくるわけですよ。小さい声なんですよ?けど、木の声が聞こえる人がいたけど、ぼくは、もうひとりの僕の声みたいな感じですよね。
99%以上は、ナンセンスだっていってるんですよ、帰れ帰れって。でもちょっとの声はThis is it.っていうやつですよ。マイケルジャクソンじゃないですけど。で、一週間終わったときには、散々な状態になってるんですけど、次回の申込書に名前書いてる自分がいるわけですよ。(笑)そうやって僕の座禅との関わりが始まりだした。で1年後には両親を驚かせ、悲しませ、落胆させて、大学院を中退してお寺に入ってるっていう、急展開ですよね。
あの時、帰れっていうときはい!って帰ってればね、今時多分ね、大学の先生になるつもりでやっていたので、全然違った人生だったけど、全然後悔してないです。お陰でみなさんに会えてますし、小さな声に従ってよかったなという風に僕は思って。そういうのをハートボイスっていうんですけど僕は。マインドボイスじゃなくてハートボイスっていうんですけど。僕の身の上話はこれくらいにして、でも禅について話してくださいっていったので、禅について話したいんですけど、そもそも禅って長い伝統を持っています。
こういう広大なお寺とか僧堂、居士林という長い伝統を持っているし、それから伝統に従った形式の僧堂修行っていうのが行われている。それはそれですばらしいことだと。僕もそのお陰でまったく仏教に縁のなかったぼくが、それに触れることができたわけです。でも、それと同時にそろそろ伝統の枠を、型を形を飛び出すときがきてるのではないかという風に僕は思ってて、というのは僕の話もし特徴があるとすると、一つは海外で長く、海外の人たちと一緒に修行してたっていう。日本ではさっきいった紫竹林安泰寺で6年修行したんですけど、縁があって師匠に、お前の先輩が立てた小さな禅堂がアメリカ東海岸のマサチューセッツ州っていうところに、ほったて小屋みたいなのがあって、そこで小さなグループが座ってるからそこに行ってみないかっていう風に言われて、行ったんですね。
で何が起こるかわからないけどわくわくするなと思っていったんですけど、そこでそんな大きなグループではないんですけど、いろんな人たちと出会いながらきづいたら18年近く経っていたっていうことです。でそこでは伝統っていうのはないんですよ。だれも禅のお坊さんってこんな感じっていうイメージがないので、僕自身は非常にのびのび、実験的な試みができたっていうことはあります。ですので、日本で6年、向こうに18年いて大半の時間を伝統がないところでやってきたっていう、まあ日本の立場からみれば、なんていうんですかね、禅の帰国子女みたいなもので(笑)
はい。ちょっと特殊なあり方をしているんですけど、それが今ではですね、いろんな曹洞宗が主ですけど、いろんなお坊さんたちに座禅の仕方とかいう風に話してくれって、僕のスタイルでいいですみたいなかんじで言われてるんですね。でいまや僕、藤田一照の前に、正式には曹洞宗国際センター所長なんですけど、秘伝という武術系の雑誌があるんですけど、その僕の前では、ソマティック系僧侶とか、身体系禅僧っていう、かぎかっこつきの、形容詞がつくようになってるんですね。
綱渡りしたり、いろんなへんなバランスボールにたったりする写真がよく乗ってたり、武術家とこんな格好でやってる写真がよく出るんですけど、これが僕にとってはヨギではなくて、これが禅だという風に思っているので、今までの人からすると、ソマティック系とか身体系っていうのを外すくらい、そういうのが禅だよっていうのをひろめないと、僕としてはがんばらないといけないなというところにいます。みんながやりだしたら僕が目立たなくなるんじゃないかっていう風に思っていて、日夜努力している、忙しく努力しているところです。
心理学をやってるときも思ったんですけど、こころの問題っていうのはこころも問題っていうのでは済まなくて、少なくとも身体っていうのはあるんですけど、心理学では、当時の心理学ではほとんど身体っていうような用語は使われないんですね。心理学なんだから、心理っていうことはこころを扱うんで身体ではないっていうことですね。で、じゃあ身体のことも知らなきゃっていうんで僕思っていましたので体育学科にいくんですけど、体育ってこころがないんですよね。両方知りたいっていうか、両方が裏表になってるっていうか両方が切り離せない形で、僕が日々相手にしているのが子どもたちなんですよ。
しかもそこには生活っていうのもあるんですね。いろんなものをまとい、それから住居、環境にいて、いろんなものを口にいれ、っていうようなそういうのを考慮しない限りは助けにならないんですよ。心理だけとって、それをいじってもだめなんだっていうのが、普通に考えたら思うんですけど、学問やってるとそれ、忘れてしまうっていうか、忘れなきゃ行けないんですよ。学問の中にいようとすれば。であまりにも僕が窮屈な感じがして、結局飛び出したんだと思うんですね。飛び出して禅に入って、何の知識もなく身体でやる、座禅も含めた修行ですよね、ほうきをはいたり、それから食べるときも作法っていうものがあって、それに乗っとってやるっていうような、形から、型から入っていくようなもので最初に触れたんですね。
で、それに惹かれて入ってみたんですけど、やはりこころの時代っていうNHKの番組がありますけど、やっぱりこころの問題だっていう風に思ってる人が多いんですね。だから座禅っていうのは精神統一でしょとか、無念無想になるんでしょとかみたいな、やっぱりそれも一般的イメージなんですけど、やっぱりこころ重視で、身体が忘れられてるという気がしたんです。僕それでは禅に限らず仏教の行法の特徴がうまく捉えられないんじゃないかっていう気がしていたんですね。だからなんとか身体っていう観点っていうのを入れたいっていうのがずっとありました。
特にアメリカ行って、それが強くなった。というのも、アメリカで禅に興味を持つ人って頭がいいっていうか、自分でそう思ってる人が多いんですよ。頭では、まさに今朝星野先達がいった、学歴の高い人たちって頭で分かったらそれで終わりっていうような訓練を受けてきてるんですけど、こっから下がないんですね。でマインドフルとかっていうのは当時は僕が行ったころはまだなかったですけど、食い方そのなんとかならないのみたいな感じですよね。
行って言うのは、小学生が靴の脱ぎ方とか、茶碗とかそういうものの扱い方っていうのは全然洗練されてないんですよ。学歴高い割には、これはちょっと、姿勢も悪かったり、いうことはかっこいいんだけど、一番手元のところが全くケアフルじゃないんですよ。ケアレスっていう。ケアっていう言葉が今日は大事なんですけど、ケアですね。これフルっていうのがあるんですね。それからケアリングっていうのがあって。ケアっていいことばで、ケアフルっていうのは注意深い、ちゃんとそこに心がこもっているっていうことだし、ケアリングっていうのは感情的な態度ですよね。その人、あるいはものに対して、情愛のこもったっていうことです。
単に注意深いだけじゃなくて、そこにウォームなものがあるので、ケアっていうのはこれが両方入っているので、いい言葉だなと僕は思ってるんですね。で禅はとくにそういうことを重んじるんですよ。偉そうなことをいってお前なんだその箸の持ち方はって、日常生活の立ち居振る舞いっていうかんじですかね、たたずまいっていう感じですね。っていうものの深さって言う者を非常に大事にするんですね。だから口でうまいこといってるけど、そこがおろそかになってるっていうことはやっぱりここで考えてやってるっていうことで、何か大きなものが抜けてるっていう感覚はあったんですね。
多分日本もそうなりつつあるんだと思うんですね。同じような価値観で突っ走ってきてるので。僕もしゃべりだすと終わらないんでね、そういう問題意識で今はやっています。今日の午前中もそうですし、午後僕のしってる方たちがお話するんですけど、みんなやっぱり地に足をつけるっていう言葉がありますけど、身体に足をつける、ついてるな(笑)なんていうか身体にかえるっていうのかな、こっから考える、一番具体的で身近なところから考えるんですよっていう風にね。
特に多分皆さん知的な作業でお仕事されてると思うんですけど、それでは通用しない世界っていうのがあるっていうことで、それは仏教が問題にしてきた、生きる、年をとる、病気になる、死ぬっていうようなことです。これは頭で料理できるようなものではないので、頭で料理できないものは、ないんだって、あるんですよ。頭で料理できるものは、ほんのちょっとの領域で、頭で料理できないものがあって、それをどういう風にちゃんと折り込んだ生き方をするかっていうところが大事で、星野先達は昔のひとたちって言ってました、伝統を作ったような人たちは、ちゃんと折り込んで作っているものがあるんですけど、ある時期からだーっと抜けてしまっているというような感じですね。
僕らもう一回、取り戻そうよっていうのがこの鎌コンっていうか、あれだと思うんですね。そういうのが魂とか、そういう話になっていくんだろうと思います。それで、ちょっと皆さん座っているので、そう、身体に意識を向けたときに、気づくことってあるんですね。普段忘れているけど気づくことっていうのがありまして1つは床から支えてもらっているということです。これ、グラウンディングっていうんですけど、非常に大事なことですね。でこれは抽象的な概念ではなくて、事実のことなんですね。今床から支えてもらっていない人はいないですよね。でもそれが、意識の中にちゃんと入っているかっていうと、そうではないんですね。
当たり前に思っているから、とんでるかもしれない。そういうのが、地に足がついてないっていうことですね。だから時々でもいいから、グラウンドしているっていうことを思い出すんですね。でそれは考えたことじゃなくて、感覚を手がかりにっていうことですね。はい、足の裏と床が触れている感覚。座っている方は、足と床の触れている感覚ですね。これは考えることではないですね。で日本で育ったせいかわからないんですけど、感覚を捉えにいくような英語のインストラクションがどうも耳につくんですよね。Tension to the sensation at your feet. なんていうんですよね。Pay your tension to みたいな感じで。感覚を捉えに、こっちから出かけていってとってくるみたいな、感覚をとりにいくみたいな。
能動的、或は攻撃的なスタンスですよね。これは感覚にとってはどうなのかっていうのが1つ違和感としてあります。武術なんかでは感覚を捉えにいこうとしてはいけないっていうんですよね。隙ができるんですよね。そうではなくて、感覚は間をあけて、スペースを作って感覚がやってくるのを受け止めるっていう。そういう感覚との関係の持ち方なんですね。で感覚はこちらのスタンスで全然違ったものを与えてくれます。
取りにいって、いくときに、出会う感覚と、スペースを持って、あけて、待っているときにやってくる感覚は違う。どちらがいい悪いではないです。でも瞑想のアプローチって多分後者のほうじゃないかなという風に僕は思っています。特に座禅なんかはそういう感じだと。で、座骨、いすに座っておられる方は座骨、お尻のところに骨盤があって、座骨がいすの座面に触れていますよね。足の裏の感覚も感じながら、受け止めながら、座骨の感覚も受け止める。の想いで、床に語りかけてるんですよね。
コミュニケーションですよね。ある意味自分の感覚と床のコミュニケーション。で、ツールは何かっていうと、体重と意識というのか、意識っていうのか、気づきですね。目を閉じない方がいい、今の場合は目を閉じない方がいいですね。集中しようとしちゃってこういう風になってしまうので、目が開いていても分かる感じの感覚でいいです。集中しようとしなくていいですね。ただそこを思っているだけでいいです。で手もリラックスして、この胸鎖関節っていう首の付け根から鎖骨が出てる、ここが腕の付け根と思ってくださいね。
腕ってこっからはじまってるって思ってるんですけど、機能的にはこれだけのまだ上として使いますので、こっから腕が始まって、指先までいってると。こっからだらーんとリラックスして、で手の甲とひざがコンタクトしてる感じですね。で今日の場合は軽く親指と人差し指でリングを作ります。ギューっと押さえないように。けれども感覚も変えない。この2-3日の僕のキーワードは甘噛みっていう。猫の甘噛みのイメージですね。ガブってかむんでもないし、かまないんでもない。甘噛みしている状態、甘噛みの感じで親指と人差し指がまるくリングを作っていますね。そして、指の内側の輪郭を感じてください、輪郭をみてくださいっていうんですかね。そこに気を持っていってくださいっていったらいいんですかね。そこを気にしてくださいっていう。ことばが難しいんですね。注意を向けてくださいっていうとさっきみたいになってしまうので、気にかけてくださいっていったらいいですかね。
ケアリングっていうのは気にかけるっていうやつですね。右と左両方作ってください。輪郭、を気にかける、ですね。気を、ではなくて気に、かけるですね。足の裏のグラウンディング、座骨のグラウンディング、それから親指の両手の親指と人差し指が作っている輪郭に、気をかける。もちろん音も聞きます、というか聞こえてますね。はい、呼吸。呼吸も、気にかけます。コントロールしないように、ですね。気にかけるけど、いじらない。自分の感覚器官にやってくるものだけをそのままうつしているという感じですね。
だから目は光ですね。まあ匂いは今あまりないですけど、味もあんまりないと思います。さっき食べたお弁当が口に残ってるかもしれないですね。この身体感覚。それから思考が雲のように、クラウドですね、空に浮かんでいる雲のように現れては消える様子をみていればいいですね。まったく受動的。くつろいでる、深くくつろいでるけどはっきり意識はされている。ケアフルとケアリングっていうクオリティ、こころが静まっている状態。これは人間生活が始まる手前に帰るんですね。人間生活が文明だとするなら、これこそ”GO WILD”ですね。自然の中で駆け回るのも”GO WILD”なんでしょうけど、ただ生命が、ヤマさんが今日面白い図をみせてくれましたけど、100兆の細胞がそれぞれの仕事をそれぞれのやり方でやっている状態をただ味わっているだけ。
生命が生命してるだけっていうところですので。動き出す前ですよね。純粋に生命の光が燃え、炎が燃えてるだけの話。何の生産もしない。ここでは心地よくなろうとか、人間的なそういう価値観もここには通用しない話ですね。ましてやいい経験をして偉くなろうとか、っていうのもないですね。悩みを解決しようっていうのもないですね。ことばが通用しない世界ですので。ただ事実が事実してるだけの世界ですね。これ、30秒だけぼく何も言わないので、僕がいったことは全部忘れてもらって、ただ味わってください。
(30秒)
もうちょっと続けますね。今いった、この人間生活が始まる前っていうことですね、ここ。で人間生活としては何も始まってないんですけど、めちゃめちゃ複雑なことが起きているわけですよ、それをぼくら何にもしらないでも、この上で生活しているわけですよね。多分ぼくらはほとんどこれ何がおきてるか、ほんの一部は解明されてるのかもしれませんけど、これ何もほとんど僕ら、ダークマター、ダークエナジーを読むと、宇宙のたった4%しかぼくら知らないわけですよ、宇宙の存在しているものの4%しかしらないっていう。これもそうかもしれないですね。
で、この中には物理学も入っています。物理学が扱うようなものも入ってますね、宇宙物理学も、これが宇宙なんです実は、今日の内的宇宙っていえば、これが宇宙ですね。で宇宙の、ものでなくて、はたらきっていったほうがいいですね。ではたらきが、いろんなものとして現れてるっていう風に思ったほうがいいので、純粋にいうとはたらき、でそのはたらきが、そのときどきの表情としていろいろ現れている。僕らも宇宙の表情の1つ1つだといっていいと思いますね。宇宙の表情のローカルな、鎌倉市、円覚寺に佛日庵なんとかの間、で現れると、今の瞬間はここのひとたちがこういう表情として現れて、楽しくやっているというような感じですよ。
でもそれも次の瞬間にはまた変わってきます。まだ多分時間が変わってきたらこれ、解散して、それぞれのところにいくわけですね。そういうのが宇宙全体で起きているわけなんですよ。で、それを宇宙は修行しているっていう風にいうわけですよ。で、石も一生懸命石してないと、石じゃなくなってしまうわけですよね。で、石も疲れるらしくて、砂になったりするわけじゃないですか。金属疲労って僕金属が疲労するのかと思って、金属疲労っていうのは新鮮なショックを受けましたけれども、事故が起きたときとか、金属も疲労するんだよっていう。
つまり働いているっていうことですよね。僕らも疲労するけど、石も疲労する。そういうのを修行というんですね。石も石を修行しているという言い方をゆるされるなら、石は石を修行している。で宇宙は、あらゆる構成員が全部それなりの修行をしているんですよ。そういうのをそれぞれが、法会に従してるっていうんですね。法衣っていうのは、難しいことばですけどそれぞれの役割をしめて、何ひとつ無駄なものがない、それぞれが真理によって定められた位置にいて、それで一生懸命修行しているっていうのが従法会っていう言い方です。いろんな言い方できますけど。で、人間だけが、多分、多分ですよ、他の存在だったことを忘れてるんです。人間だけは、忘れてしまってる。
従法会しないで、こっから、外れているかのような、夢をみているんですね。外れることができないんですよ。でも人間って、思考をできるはたらきをこの、宇宙から授かっている、恵まれているので、今ここにいること、ここで起きてることはこれしかないんですよ、これ以外はありえないんですけど、ここにないことをここで妄想できるんですね。妄想といっちゃいますけど、妄想ってないものをある、あるものをない、と思えるっていう。すごい才能ですよ。あるものをない、ないものをあると思えるってすごい才能ですけど、この才能のせいで、自分がこっから外れてる、この流れの中にいないかのように、で流れをこの外側からみるとか、コントロールするっていうことができるような錯覚を、妄想が錯覚を生むんですね。
で、この錯覚に基づいて行動するので、その展開する、行動したらそれは事実になってしまいます。ので、妄想錯覚、これはここまではまだいいんですけど、錯覚、これ行いにしてしまうと、行いするとこれ業になるんですね。業はかならず結果を生むので、この結果は自分で責任持たなきゃいけないっていうことですね。ほんとは離れてなんかないのに、離れてるという妄想で錯覚して、その錯覚に基づいて行動するから、だからこれ夢ということです、仏教でいうと。仏教のプロジェクトって夢から覚めることが仏教のプロジェクトですね。
禅も同じです。禅っていうのは覚めた、夢から覚めた状態のことを禅っていいます。で夢から覚めて、日常を生きるっていうのが、What is”ZEN”? と言ったときにぼくが今日のコンテクストでは言えることかもしれませんね。夢から覚めたら終わりじゃなくて、夢から覚めたら初めて人生が始まる、生きるっていうことが始まるんですけど、ほとんどわれわれは、夢の続きを、夢から覚めないで、夢のままでいい夢みたいっていうのが、僕のアプローチなんですけど、でも最後はこれは、かがまた妄想を強めて、ここのサイクルをぐるぐる回ってるっていうのがいわゆる流転輪廻、サムサーラっていうやつなんですよ。
これは苦しくないの?っていうのがお釈迦さんの教えですよね。でもそっから覚める方法はあるよっていうのはお釈迦様の、ぼくらに向けてのメッセージなんですよね。なぜかっていうと、これは最終的には、死ぬっていうのはここにぽちんと落ちることなんですよね。ここに帰っていくわけですよね。だから曹洞宗では死んだ人のことを新帰元っていうんですよ、新しく、元に返った人っていうことですよね。もとっていうのは家のことですよね。だから心配しなくても最後は家に帰るんですけど、生きている間に帰って、生きた方がいいんじゃないですかねっていう話です。
だから毎日、あるいは瞬間瞬間を新帰元として生きよう、生きませんかっていうことですよね。これが禅が強調していることですよ。Wake up, and live. っていうことですね。目覚めて生きろっていう。そのためのいろんな、 Tipsっていうんですかね、コツとか、典型的な座禅ってあれ目が覚めてる状態ですね。夢の方にいってしまうとですね、ほっとくと、うーんっってこれに引っ張られて、思考という夢の材料に引っ張られて、宙に浮いてしまう、夢見てしまうんですけど、それをもう1回目覚める方向に切り替えるっていうことですよね。僕ら夢見るちからはあるんですけど、目覚める力も与えられている。綱引きしているものですね。
で、夢は寝てるときに見なさいっていう、起きてるときは覚めていきましょうっていうような話だと思います。それをできるのは身体があるからだと思うんですね。身体って常に現在形で動いている。身体はこちら、ここに属していますから。ぼくらっていうのは絵に描くと、いま思いつきましたけど、ほんとはこうだって全部入ってるんです、ここんなかにいるわけですけど、こういう風なかんじなんじゃないですかね。
で、ここに波があって、私はここにいるっていう、こういう夢をみているんですね。だから一番僕らに取ってこちらを思い出すアンカーになるのは、生きてる身体っていうことですね。生きている身体っていうのはものじゃなくて、はたらいている身体ですから、感覚っていうのが非常にぼくらにとってはよすがになるっていうことですね。感覚で世界とであっていますので。だから五感を通して、世界と出会う、その、稲葉さん、なんて言たっけ、つないでくれるものって言ったっけ、身体はつないでくれるもの。ですね。
今日のテーマは一つはやっぱり身体っていうものなんじゃないかなっていう風に僕は思います。あと、言おうと思っていたことは何かな、あと呼吸もそうですよね。僕ら普通呼吸を使いますよね。使うっていうのかな、自分でコントロールしようとする。呼吸を感じてくださいっていったら、たいていの人は呼吸を変えようとする、っていうのが自動的に自動反応みたいに起きてしまうんですね。ぼくらは単に見るだけでは済まないで、必ずいじるっていうのがすぐ手をだしてしまうんですけれども、これを分離するっていうかこの癒着を切り離す、でいじるときも、これはいじってるってちゃんとわかってやるっていう、訓練が必要なんですね。
だから瞑想するときには、まず今まで癒着してるものを手術じゃないですけど、きれいに切り分けていくっていうことが、感じをあげていくっていうことがすごく大事で、今思いついた、ぼくらがいろいろ問題をはらんでいる癒着は、一つは今の感じるっていうこととコントロールするっていうことの癒着、でもう一つの癒着は、経験することと思考することの癒着ですね。経験の一番大事なポイントは、今起きてることを経験してるってことと、それについて考えてるっていうことの区別、この癒着を切り離すっていうことができないと、瞑想にならない。ですね。
考え事していることを極端な話瞑想だと思っている場合が結構あるんですね。はい、呼吸を感じています、と思考していて、呼吸は感じられていないっていう。呼吸を感じている自分を思考している人が結構いましたね、アメリカでは。日本でも多分多いのではないかと思います。わからないんですね、自分が考えている、経験してるんだっていうことは分からないっていうことですね。
最終的に禅っていうのは、まあ禅は禅っていうしかないです。これって言い方であって、たまたま今日ぼくの唇から出てきた言い方であって、いろんな言い方ができるっていうことですね。でも方向性としては多分こういうこと、夢と、覚めた世界、覚めた世界っていうのは別に神秘主義の世界ではなくて、ありのままの世界です。これのお話ですね。ここ以外なにもないです。ただぼくらここ以外を、ここ以外にない、これの上に思考をおっかぶせているので、これ僕が考えた世界だっていう風に。
僕が考えた世界をこれだと思って、同じもんだからいうしかないんですけど、ここからみてる世界とこれそのものは違うっていうことなんですね。そこの癒着をはっきり切り分けるっていうことが、まず、まずっていうか非常に大事なことになるので、今日の結論はその癒着っていう言葉がでたので、ぼくらの中に起きてる癒着ですよね、内臓も癒着してるのが多いらしいですね、はっきり切り分ける、スペースをあけるっていうか、区別するっていう風なことがやっぱり、禅ってなにか区別をなくすみたいなことではなくて、はっきり区別つけるっていうとおかしいな、識別するっていう、それを知恵といいますけど、そういう話だっていうことで、とりあえずの言い方で、僕の言い方で、僕の話は終わらせていただきたいと思います。どうも、ご清聴ありがとうございました。
(会場拍手)
司会:ほんとうにありがとうございました。
司会:えータイトルは腸能力と直感力、腸は腸ですね。みなさん、長沼敬憲さんに盛大な拍手をお願いいたします。
(会場拍手)
長沼:えーみなさん、こんにちは。長沼敬憲です。葉山で去年から出版事業を興しまして、本作ってます。もともと本作ってたんですが、身体の本です、主に。身体系。だから一照さんとか、ど真ん中。で、親しくさせていただいて、なんか無理難題ばっかりいって、つきあっていただいています。そんな感じで著者の方とつきあって、その方、著者の多くは、お医者さん、ですから家庭医学の棚が、本屋にいくと書棚がありますけど、大体著者はやりました。
健康関係は、最低でも取材は一通りやるような感じできて、科学系の研究者の方も、また全然世界が違うんですね。同じ身体を扱っていても、臨床医の先生と研究者ってまたぜんぜん言語が違うし、でもどっちにしても身体だと。でボディーワークやってる人は、一照さんも新体系僧侶とか言われていて、特にいろんな形で身体に関わっている人とぼくはかれこdれ15年とか20年くらい仕事というかですね、もうなにが仕事か仕事じゃないのかわかんないみたいなかんじでやっておりまして、それで結局、5年前に腸能力っていう、なんともすごいタイトルの本を出さしていただいて、僕は編集者なんで、ほんとは裏方なんですね。
裏方で別に表にでる立場じゃなかったんですが、なんか引きずり出されちゃってですね、長沼さんいろいろ経験したほうがいいよとかなんか色々そそのかされてですね、それで特に腸で始まっちゃったんで腸の話が多くて、また腸かよとか思うんですけど、でも意外と奥が深くてですね、今日はその話をさしていただきたいと思います。それで、腸っていっても、食べ物の消化吸収排泄っていって思っていると思うんですが、もう一個大事なポイントがあって、免疫っていいますよね。で免疫っていう言葉が誤解を生んでる部分もあるんじゃないかと僕は思っていて、疫は疫病ですよね、疫病を免れる、だから病気を防ぐ身体の仕組みを免疫って呼ぶんですね、基本的には。
白血球が主にやってる、免疫細胞って呼ばれています。血液とかいろいろ循環して、身体の外部にある異物を、自分にとって必要なものか必要じゃないものかって判断する、そういう仕事をしているんですけど、その中心、かなりの中心的な場所として、腸が存在していると。なぜかっていうと、自分と自分以外のものの中で、身近なものは食べものですよね。食べ物を取り込む器官が腸なので、そこが免疫細胞が一番集まっている、まあ一般的には60%くらい集まっていると言われているんで、腸と免疫というのは切っても切り離せない。
で、ようするに消化管とかね、消化でもいいし、広い意味で代謝って呼ぶんですけど、大体コインの裏表というか同じ役割をしていますね。で、僕自身がですね、腸の話もそうなんですが、もともと医療とか健康の仕事をする前は、午前中に、まだ面識がないんですが稲葉先生とかも山登りされてたとおっしゃってましたけど、僕も大学時代山登りをしていまして、ワンゲルだったんですけどね。で自然の中入るじゃないですか。自然の中入るのに、なぜか自分だけが不自然だと。自然の中にいる自分が、なんでこんなに自分らしく振る舞えてないんだっていうのがすごい出発点で、自然に生きるってどういうことだろうって。
自然の中に入れば自然がわかると思ったんですね。と思ってたんだけど、自然っていうのもただの場所に過ぎなかった。自然と思ってる場所があって、それは緑が多い場所だったり、山だったりするわけですよ。場合によっては海かもしれないですね。でそこにいくと自分らしくなれるっていう想いがあったんですが、実は世の中見渡すと、普通に自然に振る舞えている人もいると。都会にいても自然な人は自然だしってなると、僕は大学のとき生態系とかエコロジーがすきで、卒論も自然農法とか書いちゃったんですけど、最終的にエコロジーって土の中ばっかりみてたんですけど、人間関係がエコロジーの基本かなという風に思うようになって、それで自然、いわゆる山とかそういう自然の中に入るのをやめて、普通に就職しようと思って。
社会の中でエコロジカルにどう自分が生きられるかっていうところで、だんだん身体ですよね、どんなひとも共通で持っているものが身体だっていうのが拠り所で、それでだんだんいろんなことをですね、探求していく中で、仕事でなぜか引き寄せの法則があるかしりませんけど、なんかお医者さんとか研究者とかですね、身体扱っている人と仕事するようになってきたのが30代です。それで、なんか僕は山登りしたりして、だんだん力づくで生きるっていうよりは身体の重心とか、上虚下実とかですね、肚とか丹田とかここらへんが中心だなっていう話がだんだんわかってくるわけです。で脱力しないといけない。それで頭よりも肚だと。
で、腸能力、腸が元気になれば脳も使えるというような意味合いを込めて出版社の人がつけてくれて、勝手にもう僕が自分のもののように使っているんですけれども、結局ですね、身体の中心なんですよね。身体の中心っていうのは生命の中心的な機能がすごく多くあって、生殖器もそうだし、骨盤、仙骨の話も出ましたけど、なんでしょう仙骨ってもともと尾骨が先にあってしっぽがありますからね、だから四つ足の動物のころから考えても、この辺に大事なものが集まってるっていうのは、みなさんも直感的にわかることだと思うんですね。
それがどちらかというとないがしろにされていると。で頭中心で生きてる、もう今日いろんな方がお話されてる、大体共通してる話っていうのはその辺だと思うんですね。で僕も同じような文脈で、腸と。腸も結局肚の一部、で僕は食事から入っていったんで、途中から食事の指導をしてくれる先生と出会ったりなんなりで、自分の内側から変えていくっていうことで、そこそこ元気になりまして、それで肚の世界、腸の世界、こう中心の世界、どちらかというと動物的な直感っていうのはここから出るわけじゃないと。
直感、頭でひらめくイメージがあるけど、実は感じて動くんだからここが中心だっていうのが僕の身体論です、中心認識の核になってるんですね。ですから、こっちの世界に帰るにはどうしたらいいのかっていうことで、例えば禅があったり、いろんなボディーワークの考え方も、この人すごいなっていう人はだいたい違うことばで同じようなことをいってまして、そうなんです。それで、腸っちえうとみなさん食事の話ばかりするんですけど、そこがだんだん僕の中で違和感がでてきて、食事も結局免疫の基本は、よく言われている、自己と非自己っていうのの見分けっていうのをやっているんですね。
白血球もそうですし、1900年末から2000年代初頭にかけて、細胞の免疫の仕組みっていう、メカニズムが明らかになったんです。これは私たちひとりひとり、みなさんの細胞が60兆とかもっとある中の、細胞1つ1つに、そもそも原始的な免疫の機能が備わっていると。その免疫の仕組みっていうので、瞬時に実は頭で考えるより前に、基本的には自己と非自己っていうのを見分けている。だから身体にとって必要なもの、OKが出たものが腸から吸収される。OKじゃないものは、排泄されて、便になるか、変なものを食べると食中道になるし、或は病原菌とかそういったものも、免疫の、特に腸、或は肺、のども含めですけど、その辺りで結局は免疫が働いてくれるから一応排除されるんですよね。
それで、自己と非自己。ただですね、ここから面白いと思うんですけど、この何を持ってどこから自己でどこからどこが非自己かって難しいんですよ。頭がですね、僕にとって敵か味方かって、結構考えやすいんです。自分にとって利害があるかないか。仕事上のつきあいで、この人は必要か必要じゃないかとか、頭で結構損得勘定しますよね。だから意外とでもグレーゾーンになっていて、そんなに簡単に人間関係もわけられないじゃないですか。だから、そんなに実は緩やかに、善と悪だけじゃないんですよ、世の中でよく言われているような。
それを、免疫は、なんでしょうね、微妙な、なにが必要で必要じゃないかを瞬時に判断しながら、つまり、よく、僕がよく使っているというか科学のことばで、とくに腸にたくさん免疫細胞が集まっている、そこで働いている免疫のしくみっていうのは、免疫寛容っていうんですよ。やさしいんですよ。腸は、とくに腸の中で働いている免疫のしくみっていうのは、そんなにこいつは敵だとか、嫌いだとか、いわない。
まあいいじゃんっていう感じなんですよ。免疫寛容なんですよ。だから間違うんです、結構。だからアレルギーにもなるんですよ。そういう仕組みができていて、それがちゃんと機能していると、身体っていうのは代謝がスムーズに進んで健康でいられるんです。ですから、腸が大事だっていうのは食べ物もそうだしストレスもそうですけど、腸の働きが乱れてくると、結局免疫寛容が働かなくなるんですね。
だから人間関係で悩んで、だれともつきあってもなんか鬱になっちゃうような人といっしょなんですよ。そういう人はカウンセラーとかね、いろいろ、コーチングの方も多いし、いろんな方のアドバイスとかを受けて立ち直る人もいるし、立ち直れない人もいると思うんですが、お腹も同じことが起きていて、それで本当にまずい人はアレルギーに悩まされたり、自己免疫疾患っていってね、いろいろそういう病気、難病になるひともいます。でなくても、われわれも一般的にとにかく、免疫細胞だけじゃなくて、すべての細胞で自己非自己の認識っていうのはされてるんですね。だからおそらく、皮膚感覚で、おそらく免疫機能に限らないと思うんですけども、脳で感じる、それこそ前野先生がおっしゃってる話もあるかもしれませんけど、身体的には判断してるはずなんですね、このどんな人か。
それで間合いと距離、ここまで近づくと気持ち悪いかもしれないから、この辺にしようとか、この角度ならいいかとか、みんなそうやって人間関係で間合いと距離をつくって生きてらっしゃると思うんです。でこの間合いを間違えると、武道だったら負けてしまったり殺されますよね。でスポーツも全部間合いですよね。それで全ての世界はその間合い、僕は層って呼んでるんですけど、それこそ細胞レベルから、組織器官身体、個人社会、宇宙、全部で成り立ってるっていうことはいろんな方がおっしゃってるもんですが、この層の中で存在していて、自己と他者がいると、なぜかぼくはぼくで、あなた、それは食べ物も含まれる、人だけじゃない、でイッショウさんもおっしゃっていたように、ものもそうなんですね。
自己と他者の関係性で、家の中で例えば、このマイクの置き方を、こう置いた方が気持ちがいいか、こう置いた方が気持ちがいいかとかですね、インテリアとか雑貨とか、だから空間ですよね。空間の中でどんな風に机を配置するかとか、それこそゴミがない方がいいとか、植物をどう置くかとか、全部含めて関係性が成り立っていて、層の世界、層をぼくはティシュー、ティシューという雑誌を作ってるんですね。まあかなり宣伝ですけどね(笑)ティシューっていうのは、組織工学、っていって、学問もあって、いまでいう再生医療ですよ。ティシューがだから、組織っていう意味なんですね。でこれは会社の組織っていうより、身体の組織だったりそれを指す。でティッシュペーパーっていうのがこうそれこそ層のようになってますよね。
だからティッシュって和製英語なのかもしれませんけど使ってる。だから全部が層のように成り立っていて、まさにティシューになってるんですよ。その中でどういう間合いでつきあっていくか、で皆さんも人間関係で悩んだり、自分なりにクリアして、それで快適になったり不快になったりしていますよね。身体も一緒だってことです。食べ物との関係も、どういう距離感で食べ物とつきあうか。糖がいけない、まあ確かにいけない面もある。だけどどの距離感で食べるかっていうのも重要ですよね。ストレスでただやたらと食べる距離感なのか、楽しく食べる距離感、全部からだの反応が違ってて、ストレスは最初にお腹にやっぱり反応するんです。
ですから、身体は正直なんですよ。だから、一番分かりやすいのは、便の状態だったり、全部現れますから、もう嘘はつけない、嘘がつけない世界が自分の身体の中心にあるんです。それが、でも実は、寛容なんですね。ほんとうはやさしいんです。だからやさしくならなきゃいけない。僕たちは優しく生きるために存在しているんだと僕は思っています。だから、一応ここで、今回11人の人にいろいろ取材して記事にしたんですけど、やっぱね、やさしく生きるっていうフレーズを最後こだわってつけたんですね。
優しく生きるっていっても皆さん普通に思っていることだけど、僕は身体論的に見て、身体の仕組み的に見て、身体っていうのはすごくやさしくできている。だからやさしいっていうのは逆に言うと、曖昧にできている。隙間がたくさんあって、腸内細菌の話もしたほうがいいのかな、腸内細菌も善玉悪玉と呼ばれるものもあるんですが、日和見っていうね、こうどっちにも状況によって移る、会社の中でも日和見的に振る舞ってあれですよね、やっぱリーダーがいて、それに従う人が1人か2人いますけど、あとの人はだいたい様子をみてるじゃないですか。だからそういう中で、その様子をみている人を引き入れると、大概上手くいくじゃないですか。
だから自分がとりあえず善玉菌になると、1人味方をつけると、まあ腸内細菌のミツオカ先生っていう方の、ひとつの概念としていうと、全体の役2割が変わると、調和が訪れるという風におっしゃっていて、やっぱり腸内細菌の生みの親です、学の、日本の。その方の経験論的な発言で、腸内細菌といっても100兆くらいいるから、普通にそんな正確な話ではない。ただ経験論でいうと、全体の2割が身体にとって健康な状態に導いてくれるのが2割、それを善玉菌って呼んでいる。それは発酵を促す菌。腐敗ではなくて、発酵を促す菌の割合が、大体2割くらいになったら、この世の中っていうか腸の中の世の中が変わる。
ということは組織でいったら、全体の、とりあえず自分ともう1人くらい味方にすれば、10人の組織の中であとの日和見菌の人たちが大体従ってくれますから、なんとかうまくいくだろうと。そういうような組織論の話にももしかしてなるかもしれない。ということで全部身体の中の世界、今日はあんまり話せませんでしたが、細胞の中でも同じようにミトコンドリアという、エネルギーを作り出す器官があって、そこに関係性が生じているわけですよね、DNAがあって、タンパク質合成されてっていう、その流れがありますよね。でその入り口が腸ですよね。
で腸の中で今申し上げたように、免疫細胞、細胞も働いているし、免疫細胞白血球も働いている。であと町内細菌も働いている。そこで営まれる関係性は、やっぱり今日ここに皆さんがここにこられていて、何かしらの関係性が今、今日も今間合いをはかられながらね、様子を見ながら、居場所を、僕もそうでしたけど、決めながら、居心地よさを求めてさまよってたと思うんですね。だからそれとおなじことが身体でも起きてるっていうことが分かって、じゃあ身体大事にしよう。単に健康論じゃなくて、もうちょっとやさしくいきる、ゆっくり生きる、呼吸をする、いい場所にいく、空間をつくる、断捨離とかいわれているように、部屋のいらないものを捨てるのも、自分の中の身体に影響を与えると思います。
全部の空間を作り替えるということをこれからされていくなかで、この腸の話も理解していただくと、ちまたにある腸の健康本よりはもうちょっとレイヤーがあがるっていうやつですか、あの居心地よさ、僕らが葉山で大事にして出版事業を始めたのも、みなさんと居心地よさを共有したくて、そのための共通言語として、ことばが必要だろうと、概念も要るだろうと、それこそいきなり自然に入ればすべてわかる世界の、入り口を僕らはやっています。そんなことで、はい、今日は機会を与えていただきまして、話しましたのでこれをなにか皆さんの力で消化していただいて、代謝に役立てて、免疫力を上げていただけたらと思いますんで、また機会がありましたらお話したいと思います。今日はありがとうございました。
(会場拍手)
司会:ティッシュが層ですか、そうなんですか。(一同笑)笑うところですよ。もう一度盛大な拍手をお願いします。
司会:お二方のご講演が終わったところで、横山さんよろしくお願いします。
横山:再び登場しました、横山です。実はトシコという名前なんですけれども、トコトコと呼ばれておりまして、なのでついタケシさんも層呼ぶというか、そんなかんじです。対話ということなんですけれども、もちろん先ほどももうしましたように、休憩、その他は皆さんご自由にということで、対話の前にさすがに、みなさん朝動いたっきりで、ご飯食べて、ちょっと眠くなっているかと思いますので、ちょっともしよかったら皆さん立ち上がっていただけますでしょうか。あの、もうすでに伸びをしている方いらっしゃいますけどなんでも構いません、まさにさっきいった、呼吸が変わってしまうとかそういう話はありましたけれども、自分のうち側にすこし注意を向けて、そこからでてくる動き、その動きに従って、ご自分で自由に動く、動いてみる、そしてそのまま、自分の自由さを完了してみる、というそういう時間、もう満足した、これでもうちゃんと元気になったっていうところまで動いてみてください。
そして午前中は身体宇宙ということで、今日の午後は内的宇宙にフォーカスをしますということですが、何がちがうんだろう、結局同じだとかそんな話もありますけれども、もし午後の話を聞いて午前中聞いた話、そしてそこの対話、そしてこの午後のお話を聞いた上で、身体宇宙と内的宇宙、一体どんなことになってるんだろう、癒着とかそういう話もありましたし、自己と非自己という話もあって、すこしその辺キーワードかなっていう風に思うんですけれども、そんなことをふまえて、また4-5人のグループに分かれていただいて、それをすこし午前中から振返った上で、印象に残っていること、またシェアしてください。
少し、ご自分の内側を探る時間を少し作りたいと思っています。えっと15分くらいの時間になりますけれども、だれもしゃべらずに、外に出る。外に出て、その間に、お約束はだれともしゃべらないこと、誰とも話さないでいいです。でこの問いを考えていただきたくてですね、少し難しい言葉になっているんですが、そのまま身体の受け取るままに受け取ってください。「朝のトレイルウォークから、いままでを過ごして、今ここ、のご自分の身体はどんなことに気づいていますか」です。なんか文脈よくわかんない、あの頭で考えないでください、そのまま受け取ってですね、誰とも口をきかずに、外に出て、15分間お過ごしいただいて、…(説明)
皆様お帰りなさい、あと、そうですね20分くらい時間があるんですけれども、先ほどと少し違う席におかけになってらっしゃる方もいらっしゃいますので、近隣の3-4人すこしサイズを小さくしてですね、3-4人で今日一日について話したいこと気づいたことをどうぞ、皆さんシェアする時間をお過ごしください。
盛り上がりをみせていましたけれども、対話の時間はこれで終了でございます。この後は今日のものっていうのが次にどんな風につながっていくですとか、そんなようなお話になっていくかと思いますけれども、ここでいったんタケシさんにマイクを渡します。
トコさんどうもありがとうございました。
(会場拍手)
三木:皆さんこんにちは。三木康司と申します。今日お話するのは、鎌倉から世界に禅を発信する、ZEN 2.0というイベントを来年企画しておりまして、そちらの話をさせていただきたいと思います。これロゴマークなんですけれども、そもそもマインドフルネスという動きを世界で盛んに発信されておりますけれども、その大元は禅にある、という風に私は考えておりまして、それを是非世界に発信したいなという風に考えています。で、ZEN2.0とは何かということなんですけれども、ワールドクラスのマインドフルネス体験を、禅の故郷鎌倉から発信する場をつくりたい、というコンセプトです。
メインコンセプトは、オープン禅ということで、禅というものが少しハードルが高いような感じがするんですけど、それをもうちょっと開いていく、世界に開いていくっていうことをやっていきたいなという風に思っています。でちょっと私の個人的な禅体験に関してなんですけれども、そもそもわたし、僧侶でもありませんし、専門家でもありません。ですからなぜ私が禅を語るのか、というところなんですけれども、私元々大手の通信メーカーにおりまして、その後ベンチャー企業の役員をやっていたんですけれどもベンチャーってよく、業績が登ったり下がったりします。で非常に業績が下がってしまいました。
ですのでそろそろ三木さん、よろしいですね、みたいな感じを、とんとんと肩をたたかれてしまったということで、自分的には非常に貢献をしていたので、非常にショックだったんですけれども、それで非常に落ち込んでしまいまして、でリストラされて、ちょっとこの下には出てこないんですけれども、自宅で座禅を始めて、まあ心が段々回復してきて。でこころが回復して、起業をすることになりまして、その体験を中小企業の方々にみんな、お教えするようなセミナーをやっておりまして、そういうところから禅とかマインドフルネスに非常に興味を持っております。で、ZEN2.0の想いというところなんですけれども、世界に禅がどんどん出て行っています。それで、それがまたもう一回オリジンの鎌倉に戻ってきて、さまざまな影響を受けて、もう一回各地域に展開していって、マインドフルネスで世界をどんどん作っていくっていうことで、マインドフルネスというのがですね、人類共通のOSになるような、そんなことになってですね、その結果として世界から争いが少なくなって、世界平和、ちょっと大上段なかんじなんですけど、そういった願いを思っております。ちょっとわかりにくいので、禅を大変失礼かもしれないんですけれども、食べ物に例えてみました。
それはですね、お寿司です。日本から発祥したお寿司なんですけれども、アメリカに行けばですね、カリフォルニアロールとかですね、フランスにいくとちょっとケーキみたいなお寿司になったりとか、ノルウェーのお寿司はちょっとなんていうんですかね、サーモンが使ってあったりとか、イギリスのお寿司は、ローストビーフになっちゃってます。で、禅のベースなんですけれども、それぞれの国の影響を受けて様々に変化している。それを、お寿司がですね、また日本の本来のお寿司と出会うことで、日本のお寿司も影響を受けますし、変化していったお寿司ももう一回オリジンを知ると。こういう流れを禅にも作りたいなという考えがあります。
2017年の9月の2日と3人で、ITとものづくり、あと教育と経営、芸術と娯楽、ヘルスケア。この4つのカテゴリのスピーカーを鎌倉に集めたいという風に考えています。マインドフルシティ鎌倉ということで、こちらの鎌倉を中心にしてですね、世界をマインドフルにしていくという考え方でやっております。来年が第1回なんですけれども、毎年徐々に規模を大きくしていきたいと思っていまして、最初はマインドフルシティを鎌倉につくる、というようなイベントにしていきたいという風に考えております。
その後この動きは出すね、日本中に広まってマインドフルネスネーション日本、さらにこの動きが世界中に広がっていってですね、マインドフルプラネット地球になっていく、そういった、人類が変わっていく最初の、記念すべきイベントというのをやっていきたいなという風に思っています。参加者に提供する価値としましては、海外から日本に本場の禅に興味をもって、そのオリジンに触れるということで本場の禅に触れることができる。あとはマインドフルネスに関しての最先端の情報を知ることができたりとか、世界からお客様がいらっしゃるので、ワールドクラスのマインドフルネスのネットワークを持つことができますと、いうことになります。
会場はですね、建長寺というお寺、この円覚寺の先にあるお寺なんですけどもそちらと、あと建長寺の横にある鎌倉学園という高校を使わせていただくことになっています。で2日間で会場はのべ500名くらいのかたに木ていただきたいという風に思っておりまして、半分が海外からお越し頂くお客様を想定しております。で、どういうスピーカー、登壇者がいらっしゃるかというところなんですけれども、冒頭、建長寺の官職様のほうに、基調講演というか法話をしていただきまして、それから各スピーカーの方にいろんなお話を伺いたいと思います。こちらの鎌倉市長と吉田官職さまに、メンバーで一緒にお会いさせていただいたという写真なんですけれども、実は市長もちょっと裏で支援いただいているようなプロジェクトになります。
こちらが登壇者ということで、マエノ先生もいらっしゃいますけれども、仏教界だけじゃなくて、当然学術界、或はこちらの方ですね、リンクドインという会社のエンジニアさんなんですけれども、中国と、インドで国際連携チームを持っていてですね、なかなかコミュニケーションを持つのは難しいと。その中で、一緒に瞑想をすると非常に業務効率がいいというか、お互いが理解できるようになってですね、そういったことでそういった体験を話されていた講演を聞いたんですけれども、非常にいい講演だったので、是非きてくださいということでその場でお願いしましたら快く引き受けていただきました。
あとは今日のイッショウさんであるとか清水さんにもきていただきます。あと、こちらのシゲマツ先生という方なんですけれども、スタンフォード大学でマインドフルネスを教えていらっしゃいます。スタンフォード大学って世界でもかなり、トップクラスの大学なんですけれども、それなりにエリートの競争が非常に激しいということで、実はエリートの中でもメンタルに非常に支障をきたしている学生さんが多いっていうことで、そのメンタルのケアの部分もかねてですねシゲマツ先生はマインドフルネスを教えてらっしゃるような方です。
あとはジュレミーハンダーさんという方は、若い頃、20代のころ、余命数ヶ月という宣告をがんでされたんですけれども、そこからさまざまな取組みをされて、もう既に宣告から20年以上、生きられているんですけれども、やはりマインドフルネスっていうところに重きを置いている、活動されているという、どっちかというと経営学のサイドからマインドフルネスをやられている方ですとか、クワノ先生は精神科医なんですけれども、僧侶でもいらっしゃいましてですね、それで僧侶という立場なんですけれども、お坊さんの方々にマインドフルネスを教えていらっしゃる、というような立場の考え方。多分今日のホシノさんも、登壇頂くということで、ほんとうにありがとうございます。
あとはオギノさん、こちらにいらっしゃいますけれども、オギノさんにも日本におけるマインドフルネスっていうところでお話いただければと思います。あとはこちらのツジさんという方はですね、スポーツドクターという立場からやっていらっしゃるんですけれども、やっぱりこころの部分というところでマインドフルネス的な考えを用いて、さまざまな活動を行っていらっしゃる方です。あと、アーティストとしましては、鎌コンの仲間であり、尺八の演奏者のクドウさんという方なんですけれども、こちらの方も結構、尺八って呼吸法なんですね。ですから呼吸の部分のワークショップをしていただいて、で後はメディテーションをしながら尺八を聞いていただくみたいなのをちょっと、企画をしています。
あとは書家の鈴木さんという方は、非常に禅に通じた書家の方なんですけれども、パフォーマンスというか大きな筆でですね、大きな文字を書くというのをやってらっしゃる方なので、ちょっと場所の調整が可能かどうかわかんないんですけれども、実際の書を書いていただくようなことを考えています。あとは仏師のオクニシさんという方も鎌コンの仲間なんですけれども、先祖代々仏像を造られている家系の方で、まあその実際にその場で彫るのは難しいと思うんですが、どういう想いで仏像とかを作られているのかを語っていただこうかなと思っています。
ということで、今どんどんスピーカーをですね、日本だけではなくて世界から集めようとしていてですね、不思議なことにですね、海外からスピーカーが是非きてほしいなと思うとですね、紹介するよみたいな感じで全部人の友達の紹介で人が集まっていただいてですね、とてもこのZEN2.0をやることが不思議なご縁で全部繋がっているような、かんじで今動いています。今鎌コンという団体と、このZEN2.0というのは協力をしておりまして、もともと鎌コンからのプレゼンで出たアイディアをこちらでプロジェクトにしていったという形になります。
やってるメンバーは今日の松島さんなどもこちらにいらっしゃいますけれども、メインメンバーがこの5名でやっております。宍戸さんも一緒ですし、今日いらしている鈴木さん、あと宮田さんも一緒にやっています。これ以外にも鎌コンのメンバーだいたい40名くらい、やってるんですけども、まだまだちょっと人手が足りないので、よろしければ一緒にご協力いただける方を募集しております。
こちらさきほど出ていました居士林という、これ円覚寺さんのそこの寺林さんの門をホームページのトップページに使わせていただきまして、ここからぜひ世界の方に、門の中に入っていただきたいという、意図でこれをつかわせていただいております。円覚寺さん、ジョウキジさんのご住職さんの朝比奈さんにご協力をいただきまして、このお写真の協力をいただきました。ただこれオープン禅という、禅を開くというイメージのページになっております。で、ちょっと宣伝なんですけれども、今まだこれホームページなんですが、ZEN2.0.jpと、禅20.jpというところで最新の情報をお届けできるようにサインナップできるようになっておりますので、もしご興味がありましたら、サインアップしていただければ、こんどこういうようなスピーカーが増えたよというような情報をお届けする予定になっています。
最後、一緒に運営側として動いていただける方を募集しております。特に海外にネットワークがある方ですとか、或は我々も禅の専門家ではないので、そういうマインドフルネスとか禅のネットワークをお持ちの方は是非、一緒に鎌倉から世界を変えていきましょう。どうもありがとうございました。
(会場拍手)
司会:来年の9月の2日、3日ですよね。
三木:来年のもう、1年くらい先なんですけども、実は企画自体は昨年の10月くらいから動いてまして、ここまでスピーカーをお願いするのに結構時間がかかったり、あとはお寺のお願いして場所を貸していただくっていうのもかなりハードルが高くて、いろんな方のご協力をいただいて、ようやくここまで形になってきたので、あとはもうちょっとかなと思いますね。
司会:是非このサインナップと、一緒に動いてくださる方を募集しておりますので、このイベントが大成功となることを祈念して、もう一度盛大な拍手をお願いします。
(会場拍手)
司会:最後のご登壇者になります。朝冒頭でもお話いただきました、前野 隆司先生に改めてお話を伺いまして、ここにタイトルは、脳と身体、人間に秘められた可能性というタイトルで、ご登壇をお願いしたいと思います。
前野:はい、ありがとうございます。脳と身体をなんとかかんとかって、すっかり忘れて、2つの宇宙を体験する身体宇宙と内的宇宙って、これはあれですか、会議のタイトルですか。そういう資料を作ってきました。失礼したのは私であります。あの、いかがでしたでしょうか。最後私の30分のトークを残すのみとなりましたけれど、楽しんでいただけましたでしょうか。(会場拍手)ありがとうございます。あの、そういえば身体宇宙と内的宇宙の説明とか、あまりしてませんでしたよね。今頃しても遅いんですけど、あのもうお気づきだと思いますけれども、身体宇宙っていうのは、身体です。でも内的宇宙って、腸とかいろいろあったからそれも身体じゃないの?みたいなさっきもトークしてるときにあったんですけど、元々のコンセプトしていは、身体宇宙っていうのは身体、内的宇宙っていうのはこころ、っていうイメージでした。
でも何か今日いろいろお話してて、身体とこころで分ける事自体が間違ってんじゃないかみたいな、そもそもね、身体がこころを支える、それに感謝しながら生きてくっていう話だったので、まあこれは一緒なのかなみたいなのが、わたしとしては気づきでした。みなさんもなにかいろいおと気づいていただけましたでしょうか。あの、最初に申し上げた通り、この会議まあどうするって決めてなくて、とにかくみんなの話を聞くと何かが起きるだろうなみたいなので、始めたんですが、皆さんのなかに何が起きたのかっていうのはまだ、私にはわからないんですけれども、わたしにとってはまだわかんないですね(一同笑)まあせっかく資料作ったんで、進めていきましょうか。そうこれね、もともと作ってた資料が何枚かあるんですよ。
考えるな、感じろ。ブルースリーじゃないですか。もうちょっと詳しく言うと、Don’t think, feel.有名ですよね。古いですけど、it’s like a finger pointing the way to the moon,don’t…日本語でいきましょうか。月を指差す指のようなものだ、指先ばかりみていると月がみえなくなる。つまり大切なものを見失ってしまうのさ。だから考えるな、感じろ。ですよね。これ最初、皆さんの話きく前から持ってきてたんですよ。皆さんの話、完璧に合致してましたよね。最初の先達の話、もう感じろ!から始まりましたから、まさにこの内的宇宙と身体宇宙とか、わけてんじゃねーよっていう話だったなと思いました。で最初から作ってきた資料、まあこういうかんじでした、こころと身体をバランスしてますか、これ有名ですね、オギノさんの資料でもみたことありますけど、怒った時、恐れてる時、とか身体っていうのはすごく反応してますよねっていう図ですけれども、まさに身体とこころはつながっていて、バランスしているべきであると、ところがこれもまあ今さらですけど、復習ですけど、現代人っていうのはなんかこうね、こんなとこにみんないたんですよ。
だから今日はすごいマインドフルなところにいるんで忘れてるかもしれませんけど、こういうところにいて、これもちょっと今さら左脳に訴えるような資料、不要かもしれませんけど(一同笑)一応読みますね。ははは(笑)こういう時代はおかしいんじゃないか!みたいな、もっというと、こういう世界はおかしいんじゃないか、あの、こういう研究なんですね。実は社会で成功する、金持ちになってる人っていうのは、闘争本能が異常に強い人たちであるっていう。怖い結果があって、マインドフル、やさしい人たちは、社会で金持ちになってないって。でも金持ちになったら実は幸せかっていうと、私の幸せ研究、私じゃないですね、世界中の幸せ研究によると、幸せじゃないんですよ。だから社会を経済的に牛耳ってる人は、実はちょっと異常な人っていっちゃ申し訳ないですけど(笑)、ある種の人で、それで虐げられてるように思っている人たちは実はそっちの方が幸せだったりする。
そういう変な社会から、元に戻るべきじゃないか、だから従来頭でっかちじゃないか!ってまあ、作ってきてたわけですが、今さらいうまでもなく(一同笑)みなさんのお話がこれと完璧にがっちしていたと言う風に思いました。このへんもそうですけど、なんか蛇足なことばっかりずっと、ありますけどね(一同笑)、私満ち足りております。あの、なんとなくやっぱり禅とか、禅寺っていうと、禅が茶道とか華道とか柔道とか合気道っていうところにつながっていった、流れを思い出しながら作ったんですけど、やっぱり外の美しさを感じるこころ、考えるんじゃなくて感じるこころ、、
まあ一つの事例としてこういうイメージの気持ちになっていただけたでしょうか。それからまあ、ちょっと左脳っぽいですけど、今日の議論で出てきてましたかね、こころよりも今日は身体のほうに重心が置かれていたと思うんですけれども、じゃあこころの方は皆さん、身体とともに本当にやりたいことやってますかっていう問いかけもあってもいいのかなと思って持ってきました。或はこれは皆さんの問いですよね、こころと身体はバランスしていますかという問いもあるかなと思います。で、今日振返っていただきたいなと思うんですけれども、ちょっとゆっくりと振返ってみてください。朝ウォーキングいかがでした?私はね、意外といろんな人と話すのに夢中で、うぉーって話してるうちに左脳使いすぎちゃったですよね(一同笑)
みなさんちゃんと、感じながら山を楽しんでいただけたでしょうか。でも身体っていうのはまあ正直で、一時間話してると脳は左脳だけになってますけど身体がちゃんとほかほかして、ここにくる準備がちゃんとでてきたなと思いました。そして、この絵はですね、鎌倉じゃなくて白馬なんですけども、まずホシノさん、感じることが神話になるんだ、それから僕最初のぼく、山は女性なんだよというのがもうなんかね、男はこう手のひらのなかでいきてるっちゃなんだけど、もうがんばって、考えすぎちゃうけど、ちゃんと感じようよみたいなことをすごく、感じさせていただきました。ありがとうございました。で、松島さん。野生の身体、ここから心に戻れと。いうことで、まあね、ほんとうにね、走るとか身体を動かすことが脳のためによい。この言い方間違ってますね、脳も身体もこころも一体なんですけれども、そこを一体として、やっぱり人間1.0、身体1.0まあ1,0だっていうことですよね。
われわれは進化なんかしないんだ。特に身体は進化しないからそこに戻ろうっていうお話でした。え、稲葉さん、細胞さんありがとうってあります。(一同笑)ぼくとしてはイナバさん細胞さんありがとうって行ってたんですけど、そのあと対話のところでですね、腸内の話の後でイナバさんと同じテーブルだったんですね。そしたらですね、細菌さんありがとうだよってイナバさんおっしゃってるのをきいて、細菌さんはわれわれの先輩なんだと。あのイナバさんの最初の図にあったじゃないですか。
わーっと生物、細菌さんはずっと昔から生きてて、我々はその乗り物なんだよ、乗り物なのに偉そうにしてないで、細菌さんの方が長生きなんだから、こう乗り物として、生きるだけ生きて、死ぬときは死んでいって次の乗り物に乗り移ってください、そういう尊敬と感謝っていうのが必要ですよと、おっしゃってました。細菌さんありがとう、ですね。
藤田一照さん、夢から覚めよ。あの絵はすごくわかりやすかったっていうか、まさに現世だと思っているものは、夢か幻で、ほんとうの私たちのこころの世界と一体となってるこの悟りというか、悟りっていうかなんですかね、その一帯となってるもの、これが本物である。そこに戻りましょうというお話。感慨深かったです。ありがとうございます。
そして、長沼さん、腸はやさしく、寛容である。やさしく寛容、ですよね。ぜひもっと詳しく聞きたいと思いました。あの、じゃあどうやって腸をもっと寛容な腸とわれわれは上手くやっていけばいいのかみたいなことを、あ、またつい左脳で感じちゃったんですけど、でもすごく楽しいお話でした。そして、いざ、鎌倉ZEN2.0へっていうお話ですよね。まあそういうわけでみなさん、1日楽しんでいただけましたでしょうか。終わりそうですけど、私まだしゃべります。(会場笑)
それを受けてですね、次なにがでてくるのかな、ああ感謝か。感謝ですよね。皆さんほんとありがとうございます。それからさっきの対話のときに、一番最初に感謝しなきゃいけないのに忘れてることがあるよって言われたのはみなさん、右向け右。あの、仏様に感謝しましょうっていうのを、最初にやるべきだったねっていわれて、そりゃそうですよね、こんないい場所使わせていただいて。ちょっと感謝しましょう。ありがとうございます。いいですね。それから、この部屋を縦長に使うのもほんとはもったいないねって言われたんですけど、遠くの人すいません、遠くになっちゃって。われわれも考えたんです、最初ぼくここで講演しようって考えたんですが、ここにスクリーンを持ってきて仏様の前にスクリーン置くのはさすがにまずいだろっていうことでこっちにしたんですが、こっちにすればよかったのかもしれないですね。
まあいずれにしても、ほんとにみなさまにもきていただいて感謝していますし、仏様にも円覚寺さんにも、それからスタッフの皆さん、皆さんに感謝しています。感謝してますけどまだ続きますよ。というわけで、そうそう、お昼に私外にいったんですよ。そうすると、円覚寺の上の方にあったのがですね、愛は人がこころを豊かに育むこころ、これはケイガンケン、カンゾウのそういう碑なんですけど、美しい心とか愛って書いてあるのをみて、すごくわたしじーんとしながら、今日帰ってきたんですね。で、免疫は寛容であるとか、なんか今日愛っていうことばは出てなかったですけど、でもなんか人々の、人々の身体とこころと、外とのつながりっていうのは信頼とか尊敬とか、これって愛だろうなと思いながら見てました。
で、こっから幸福学についてちょっとだけ語りたいと思うんですけれども、私幸せの研究をしているんですけども、幸せは4つの因子があるなんてよくいってるんですけれども、別のいい方すると、結局これなんですよね。まあちょっと、宗教の場所でこういうこというとちょっと、宗教っぽいっていうといいことなのか悪いことなのかちょっとよくわからないですけど、これまず自分を許し尊び信じる人は、まず幸せな人なんですよ。自分の過去を許せない人、自己需要とか自己肯定感の低い人は幸せ度が低いですよね。
だから自分を許す。自分を尊ぶ、自分を信じる、ということが大事です。それから幸福学では、他人を許し尊び信じるっていうことがしあわせのために重要だっていわれています。それはそうですよね、他人を許さないで、目には目をってやってるとどんどん戦争が拡大していきます。そうじゃなくて、まあ過去のことはゆるそうよって。それから社内とかでもね、あの上司がきらいだとかあの部下がダメだとかいうんですけど、そうじゃなくて、もっと大事にしようよ、尊んで、そして信じていきましょうよということがいわれています。だから私、幸福学っていうのは自分を許す、尊ぶ、信じる。そして他人を許す、尊ぶ、信じる。だとさっきまで思ってたんです、今朝まで。
それを愛と呼ぶんですよね。ですよね。愛とは自分を愛し、他人を愛すること。まあ自分を愛し他人を愛するで、もう完璧だと思ってたんですけど、今日気づいたのは、あ、自分っていってるけど、自分の身体とか、自分の中の腸内の細菌さんたちとか、それからそういう人たちとつながってる世界とか、そういうものも含めて、まあだから身体宇宙とか内的宇宙というのも含めて、許す、大腸の免疫も時々まちがえるけど、まあいいとしましょうみたいな。でもちろん大切にし、信じて、そういう人たちと、人たちじゃないですね、細菌とか、あれが脳の細胞、いろんな細胞とか、いろんなものと共生してるから我々生きてるわけですよね。
まあそういう意味ではまさに、身体宇宙、内的宇宙を許し、許してっていうかな、尊び信じる、愛して生きていく、これが幸せなことなんだなという風に思います。それから平和っていう話も最初しましたけど、平和っていうのもそうですよね。世界中の人を70億人全員許して尊び信じれば、世界平和ですよね。ですから、今日のお話っていうのは僕には内的宇宙という比喩をちゃんとこう、外的な世界、この夢物語の世界にもちゃんと活かせれば、世界平和にもつながる、そのスタートなんだなみたいな感じがしながら、感慨深くいておりました。
ああ告知だ。いい話せっかくしてるのに。(一同笑)じゃあこの会議は一体なんだったんだろうって。まだ私は謎が残ってて、私としては一つは腑に落ちた。皆さんにとっても、いろんなことで何か学んだこととか、まだちょっともやもやしてることとか、いろいろあるんじゃないかなと思います。でも先ほどの最後の対話のときに、いやいやこのメンバーが集まったことが成果なんだよっていってくださって、そうだなって。
だってこれだけすごい方々が集まって、そして何かまだもやもやしているかもしれないけどいろんなことが始まって、何かみなさんなりにいろいろ気づき始めたっていうことがすごいスタートだなと思うんですよ。だからぜひこの後も何かこう、交流して、いろんなことがだんだん決まっていって、私としてはなんでしたっけ、鎌倉パー会議?(一同笑)あれはやりたいと思ってますし。今日いろんな風に出てきたいろんな話っていうのが実を結んでいくといいなと思います。でまあそのための1つとして、いろいろ、ZEN2.0の前にもありますよってことでちょっとだけ宣伝すると、(ここから宣伝)
前野:何か告知っぽいので終わりたくないので、もう一回戻りますね。えー、こういうことです。幸せの研究者からみると、今日はどういう会かっていうと、みんなの想いがこう、つながったかなと、みんながわーっとこう、一体になったとはまだ思いません、ああ思いませんっていっちゃいけないかな。それぞれがいろんな輪になって、いろんな人と繋がったなという風に思います。そしてみんなの心と身体が繋がるっていうのはどういうことかなっていうのを、それぞれなりに考えてくださったんじゃないかなと思っています。それから、愛ですよね。幸せは基本愛です。今日はあいちゃんもきてますけど、その愛じゃなくて、愛ですよね。ですからみんなで幸せな世界をつなげたいなと思ってきました。スライドはこれくらいかな。
ああそうそう。この後、まだちょっと時間があるので、何かみんなの声をみんなできくっていうのをしてないんで、10分くらい何か最後に言いたいことがある人にしゃべってもらいたいなと思うんですけど、そのあとですね、実は私じゃなくて告知があると思いますけど、こっから出て、門を出るまでは、がやがや騒がずに歩いてほしいって円覚寺から言われたんですよ。じゃあそれはちょうどいい機会だと。
マインドフルネスっていうのはこう、静かに自分と向き合うことなので、ここをでてから門まではマインドフルに、自分と語り合いながら帰るっていうのがいいんじゃないかと思うので、そういう意味では今日の幸せな会を振返るのに、最後はまたひとりの時間をもっていただくといいなと思ってます。これが最後のスライドだったかな。まあそういうわけで、えっと、ここにしときましょうか。あの、わたしとしてはまだ結論じみたことは言いたくないんですけど、何か今後に続く形で終わるといいと思うんですよ。で何かすごくね、著名な方もいっぱいおられるので、短く何か、例えば清水さんとかさ、最後の、みんな当てますよ、当てますっていうか最後に感想とか意見とか、想いみたいなものを、15分くらいありますんで、何人かの人にいっていただいてもらうといいかなという風に思っております。
清水:みなさんこんにちは。清水と申します。えーっとですね、今日何人かの方かにシェアしたんですけど、余興がてらですねお試しいただけると面白いかなという風に思います。こころと身体のつながりということで、マイクを渡しますね。皆さんですね、手をこちらから合わせて、手と手がぴったりあわせるようにして、閉じてください。それをみると、若干なんですが、右と左の手、どっちかの方が高いっていうのがわかりますよね。若干、ぴったしっていう方はあんまり少ないんですけど、ちょっと若干高さが違いますと。で、ちっちゃな方の手を見つめて、いつもありがとうねっていう気持ちを伝えてください。ちゃんと感じて上げるよって。はい。もう一度手と手を合わせてください。はい逆転ー。逆転した方?ということで。ありがとうございました。
(会場拍手)
前野:はい、他の余興のある方。(一同笑)ナカノ先生、何かありますか。
ナカノ:ナカノと申します。あの95年に●日本におくプロジェクトをやったりしておりました。ちょっと三木さんにあとで話そうと思っていたんですけど、禅とマインドフルネスがほぼイコールかのような説明に聞こえちゃったんですけど、そこはちゃんと分けて、なぜ禅はマインドフルネスっていうことばを使ってなかったのかっていうことにこだわったほうが面白いんじゃないかなと思ったんですよ。むしろノーマインドだったわけですよね。マインドをフルにするっていうことを最初すごい違和感があったんですよ。そういう精神作用がいろいろ問題を巻き起こすのに、なんでマインドフルネスなのって聞いたときは思ったんですよね。だから禅は歴史的にマインドフルっていうことばは、ぼくは少なくとも使ってなかったと思うんで、マインドネスにあたるようなものが、もともと禅の中にはあったよっていういい方をするのがいいとは思うんですけど、テーラワーダとかヴパッサナーとかの流れで今のブームってきてると思うので、禅はあえてなぜそれを使わずに根ざしてたのかにこだわったほうが面白いんじゃないかという風に思いました。ニシノさん、禅はマインドフルネスって使ってなかったですよね?
ニシノ:マインドフルネス自体が英語だから、使わないです。コンセプト的にいうと、マインドフルの反対の、無心っていうね。無心っていうのが。だからリテラルな意味、文字通りフル、とは反対、ですよね。だから無心からマインドフルネスをもう一回解釈した方がいい。
ナカノ:そうすると、ニシノさんがおっしゃってる3.0ですよね。やっぱりマインドフルになろうっていう意識の主体が想定されてるんですよね。そうするとやっぱり、超えられない、自我みたいなのが残っちゃって。元々マインドフルネスは禅にあったんだっていって、ちょっと今のマインドフルのブームにこっちが本流だみたいな感じでいくとなんかもったいない気が若干しました。ありがとうございます。
前野:はいいいですね、問題定義でこのなんか、終わんない感じがして、次回へ続くみたいな。他にも何かいいたいことがあられrれる方。どんどん。はい、反論?
●:いやないです。●と申します。僕もほんとにここに集まれることに意味があったと思っています。で、やっぱり同じ釜の飯を食うじゃないですけど、同じものを食べて同じ空気を吸って同じ時間をすごす。で、ほんとどの方を見てもですね、相当忙しい方々が集まってると思うんです。その方々の、この10月30日のこの1日っていうのは本当に貴重だなという風に、しみじみしみじみ感じながら今、感じております。私からは以上です。
前野:はい、オダさん。みなさん指名してください。或は立候補。
オダ:こんにちは、オダといいます。学習する組織、組織開発とかリーダーシップ開発とかいろんな分野にいるんですけど実は●活動家であります。ZEN2.0っていうのをやるときにですね、鎌倉からやるってことで、きてもらうっていう観点でいうと、ちょっと参考になるかなと思ったのがGNH、それからオーセンティックリーダーシップインアクション、それぞれブータン、カナダでやってますけど、前者は主に政策的な観点で、国や地方政府とかのそういったところでどう使うか、でアーリアっていってオーセせんティックリーダーシップアクションっていって組織や企業の場合組織のリーダーシップのために特徴的なことで、瞑想なんかも使ってますし、どちらも実績がすでに10年以上あって、国際的にも随分人が集まる会議を、少なくともやっていました。
そちらもやってることは参考になるんですけど、そのやってることの意味することは、もし一般の人より宗教に関心があるとか、禅とか仏教に関心がある人を呼ぶんだったらいいんですけど、もし一般の働いてる人とか、意思決定してる人とか、そういうひとを呼ぶ場合には、さきほどのように政策とか組織のリーダーシップにどう関係するかということの文脈があったほうが、きてはくれると思うんですね。できてくれたときに、左脳で考えるとかそうじゃなくてっていう話になるとみんな、特に場を共有してると、すごく感動してくれるんですけど、大体組織が送り出した、出張せいとかそれは、個人事業主の社長であってもですね、なにしにいくんだというようなことを言われたりするような、そういう分野だったりするので、理念上というか名目上こういう目的でいくっていう話で、ほんとはそういう名目上の目的で思っていることを超えるみたいな場にはしたいんだと思うんですけど、そんなことがあるかなっていうのをちょっと思ったことですね。
あとはシステム思考っていう、私は全体性とか関係性っていうことをやってるんですけど、今日いろいろ今日話があった中で、わたしたちが全体性を感じられているのかっていうことでいうと、やっぱり木の話はでましたけど、どれだけの森林や生態系が失われるとかどれだけの個体がなくなっていってとか、どれだけの人がいま苦しんでいるのかっていうですね、まあその幸せという側面もありますけど、慈悲っていう意味では悲しみを受け入れるような部分とかで、そこで私たちの感覚っていうのはどこまで変わっているんだろうっていうのが、日本が世界に何か発信してやりたいんだったら、なんでしょうね、やっぱりそれぞれの世界の文脈みたいなことっていうのがもっともっと感じられるといいかななんていうことは思ったりします。
でもそういう感覚広げたら、多分帰ってくるとですね、子どもたちがですね、相対的貧困だとか、片親しかいなくてとか、中々食事も食べれなくて、そういうこも多いし、この日本の中でもいろんな問題があるし、福島なんかではいまだ帰れないっていう避難の人たちもいますし、なんかこう、なんだろうな、自分のところっていうのはいいんですけど、そうやって組織的に出張費払ってる人たちっていうのは、そういういろんな世の中の課題にたいして、オープンで受け入れて、悲しみをちゃんと感じながら消化しながら、何かそれを慈しみにかえられるような、そんなところがあると方向性がでていいのかななんてことは感じました。失礼しました。
(会場拍手)
前野:はい、他に、あと2、3分なんですけれども最後の締めをいってくださる方はいませんか。じゃあ私から。帰りはマインドフルにお願いします。まあそういうわけで、また会いましょうって書いてありますけれども、まあね、ぜひ何か新しい場所をみんなで作って、さっきの鎌倉パー会議もそうですけど、ZEN2.0とか、いろいろありますので、ぜひそれぞれいろんないい世界を作るんだと。幸せで平和な世界を作るためにいろんな会をやって、会をっていうか、いろんな集まりによって世の中をよくしていくっていうことをみんなでやっていければと思ってますので、ぜひこれからもよろしくお願いいたします。今日は本当にありがとうございました。
(会場拍手、終了の挨拶)
テキスト = 武藤あずさ