マインドフルネス 国際フォーラム「Zen2.0」詳細レポート

10/09/2017

9月2日、3日の2日間にわたり、北鎌倉は建長寺にて、国内初となるマインドフルネス国際フォーラム「Zen2.0」が開催されました。来場者はのべ約500人ほど訪れ、鎌倉は静かながらも異様な熱気に包まれました。

マインドフルネスは、ここ数年米国において大きな注目を集めておりGoogle、インテル、フェイスブック、ゴールマンサックスなど大手企業の研修に取り入れられ、シリコンバレーやウォール街のエリートたちの間にも広く普及しています。一方、その源流となる禅の文化を持つ日本においてはそこまで注目度が高くなく、どちらかというと米国の潮流を受けて各種メディアが取り上げているという状況でした。

日本から世界へ

Zen2.0は、禅の文化が根付く鎌倉から改めて禅の今日的な意味合いを探求し、日本の禅とアメリカのマインドフルネスをつなぎ、日本から世界に対して新たなパースペクティブ(2.0)を発信して行こうという大きなビジョンを掲げています。

老師、アカデミズム、企業人、ジャーナリストなど、ジャンルの垣根を超え、卓越したスピーカーたちが国内外から鎌倉に一堂に会し、プレゼンテーションだけでなく、様々な体験イベントが行われました。

ここからは私が参加した2日間の内容からかいつまんでレポートさせていただきたいと思います。

吉田 正道 「基調講演」

吉田 正道 臨済宗建長寺派管長 巨福山 建長寺 第240世住持

厳かな雰囲気の中、吉田老大師の基調講演が始まりました。

両手を使って「手を二つに分けると差別、手を合わせると一体、一体は絶対である」と、あらゆる物事、知らない人とすらもひとつであることを説かれました。宗教とは何か?という問いをあげ「宗教とは体験である」と断言されていたことがとても印象的でした。宗教というものが脇に追いやられてきた近現代において、これからの宗教のあり方や意味合いについて、改めて考えさせられるご講演でした。

前野 隆司さん 「意識と無意識・悟りと幸せ」(講演)

前野 隆司 慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科委員長・教授

たった一つの「●」の描かれたスライドから始まりました。「宇宙ができた140億年前宇宙はこの1点だった」と。今この宇宙にあるあらゆるものは一つから始まり、未だに一つのものであると。

そこから、先生の有名な「受動意識仮説」のお話が続きます。受動意識仮説とは、一言で言えば「自由意志は幻想である」という斬新なものですが、これは科学的な実証実験によって説明されます。一方でこの仮説は、仏教でいう「無我(意識は幻想である)」、「非我(自我以外の何ものかが運命を決定づけている)」で伝えていること同等の結論になっていることがわかったと言います。科学と宗教の接点が見出されつつあるという、今日的な潮流を感じるご講演でした。

清水ハン栄治さん 「ちょっとだけ死んでみましょう」(講演)

清水ハン栄治 メディアプロデューサー

「ちょっとだけ死んでみましょう」という刺激的なタイトル。清水さん流の巧みな場づくりで参加者の緊張を解いていきます。そして、おもむろに紙テープを配り始め、このテープを両手いっぱいに広げてみて、最大幅を100歳とした時に、自分が何歳まで生きるかを決めてテープをカットするようにガイドされます。そして、今まで生きた分のテープもカットしし、これからの睡眠分もカットします。残されたテープの長さがこれからの人生に残された時間。多くの人たちが、「こんなに短いものか!」と驚きを隠せなかったようです。その後、人生最後の瞬間をイメージする瞑想を行いました。人生最後をどういう自分で迎えたいか。そこからこれからの人生を逆算して生き方を見直していくということ。多くの気づきが得られた体験でした。

「禅 × Bean to Bar チョコレート ~ A Mindful Tasting Collaboration ~」(体験セッション)

坐禅の前後にチョコレートをテイスティングして自分の感覚を研ぎ澄ますという、面白い体験セッションがありました。

チョコレートは、鎌倉駅前店をオープンしたダンデライオン・チョコレート。生産者の顔が見える「シングルオリジン(単一産地)」にこだわり、チョコレートになるまでのすべての行程を自社ファクトリーで職人が行なう「Bean to Bar(ビーン・トゥ・バー)」を世界でもいち早く実践されており、とことん本物にこだわっているとのこと。また、坐禅は、浄智寺の朝比奈 恵温住職によりご指導いただきました。

チョコレートが座布団の前に3種類用意されます。カカオと砂糖の比率は全て同じであり、テイストの違いは豆の産地や焙煎方法などの微妙な違いによってうまれたもの。これが、坐禅によってどのように変化するのか?

私が味音痴なだけかもしれませんが、坐禅前にはさほど味の違いがわかりませんでした。しかし、坐禅後には非常にクリアに3つのチョコレートの味の違いがわかり、舌触り、香り、酸味、苦味、旨味などを敏感に感じとることができました。坐禅の効果を美味しさというわかりやすい尺度で感じることで、坐禅がより身近な存在に感じられました。

星野 文紘さん 「禅と修験道日本人と山の思想性」(講演)

星野 文紘 羽黒山伏最高位 松聖(まつひじり)・「大聖坊」十三代目

法螺貝の音が建長寺方丈の間に鳴り響きました。その直後、会場は一瞬、空気が止まったかのような感覚に包まれました。星野先達は「ここで普通は拍手があるんだけどなあ」と言って笑いをとりました。そして、こう続けます。「でも、この『間』はみんな何かを『感じ』たっていうことなんじゃないかな?拍手しなければという『考え』がどこかにいってしまったんだよ。」と。

ここから、一気に星野節の講演に突入していきます。

“修験道のことを「本で読んで理解した」と言う奴がいる。俺は、「それでどうしたの?、本で読んで頭で理解して、それがどうしたんだ?」と言うんだ。見えるものになんてなんの価値もないよ。人は、見えないものに感動するんだ。見えないものを見るために、頭で考えて見えるわけがないだろう?とんでもない山の上にある神社仏閣。なぜそんなところに建てたかわかるか?頭で考えてそんなところに建てるわけがないだろう。そこに神様がいると皆が感じたからそこに建てたわけだろう。「感じ」たことが答えなんだ。その答えを実現するために「考え」るんだ。「考え」は「その考えはおかしい」と批判できてしまう。これが争いの元なんだよ。でも「感じ」は誰も批判できないだろう、その人がそう感じたのだから。修験道とは、「大自然のなかで感じたことを考える学問であり、哲学である」俺の話をここでいくらしても、なんの意味もないのだ。”

「考えに意味はない」と言う一点をユーモアを交えながら徹底的に伝え続ける星野節はとても痛快で、多くの人たちが先達のファンになってしまうのが納得できました。

星野 文紘さん 「鎌倉山とそう行」(体験セッション)

全体を振り返ってみると、今回のZen2.0のハイライトとも言える、先達と歩く「鎌倉山とそう行」が夕暮れ時に開かれました。定員20名の本体験チケットは、真っ先に売り切れてしまいクレームが出てしまうほどの人気だったそうですが、本番でもたくさんの人たちが先達の元に集まりました。

午前中の雨が嘘のように晴れ渡り、澄み切った空気の中で夕日が沈む前の最も美しい時間帯に一行は山へ入って行きました。ただひたすら歩き、時々、祈りを捧げる。神道の祝詞と仏教の般若心境を同時に唱えるのも神仏混合の山伏の特徴として非常に興味深いところでした。

そして、相模湾を遠方に見渡す見晴台に来たときのことです。太陽がちょうど富士山の方向へ沈もうとしているのを遠くに眺めながら、何度か法螺貝を吹きました。その音色は、眼下に見下ろす鎌倉の山々から海へ、そして遠くに見える富士山と太陽に向かってこだましていきました。なんとも美しく、神秘的な体験でした。この感動は、やはり頭で考えてもわかるはずもなく、体験しないとわからないものだと実感しました。

星野先達の吹く法螺貝が相模湾から遥か富士山まで響き渡る。

西谷 安代さん 「朝ヨーガ~太陽礼拝と瞑想~」(体験セッション)

西谷 安代 ヨガインストラクター・和歌山県新宮市在住

朝8時と早い時間帯にも関わらず100名近い方々が集まっていました。先生の澄み渡った声と心地よいガイド、そしてシャバアーサナと共にクリスタルボールの音色が静かに響き渡りました。フレッシュで静謐な朝を迎えることができました。

藤田 一照さん 「帰家穏坐としての坐禅」(講演)

藤田 一照 曹洞宗僧侶・大空山磨塼寺住職・曹洞宗国際センター(マサチューセッツ)2代所長

現代人は「スピリチュアルホームレスだ」というお話から始まります。

人は「なんでここにいるのか?」と言う「存在不安」を本来的に持っており、これが宗教心(スピリチュアリティ)の芽生えなのだと言います。

“マインドフルネス、坐禅の目的は家に帰ったという気になることです。存在の故郷に帰ることなのです。本来の自分を「見よう」とすればするほど見えなくなります。「見よう」ではなく「見える」のです。”

一つの比喩として、藤田さんが趣味として取り組まれている「スラックライン」(ベルト状のラインを利用したスポーツの一種で、簡単に言うと、綱渡り)の例を出してこうおっしゃいました。

“先の見えない不安定な世の中にいるということは、スラックラインの上にいるのと同じ状況なのです。そのようなときには、力を入れれば入れるほど不安定になる。落ちそうになった時こそ、力を抜くことが大事なのです。”

パワーポイントを巧みに使いこなした説得力あるご講演は、アメリカの大企業にも引っ張りだこである現代僧侶最先端、藤田さんならではのプレゼンテーションでした。

スティーブン・マーフィ重松「ハートフルなコミュニティーへ」(体験セッション)

二人ペアになって、”who are you?” とお互いに問いかけ続けるワークを行いました。10回くらい続けるうちに、自分が何者なのか、伝えるべきことが見当たらなくなって行きます。あるいは、自分をよりよく見せようとしていた肩書き的な表現から徐々に本当の素の自分に迫らざるを得ない感覚になったりと、非常に示唆に富むワークでした。その他にも、テニスボールを投げると同時に、相手の名前を言い、これを三人チームで繰り返すというワークを行いました。とても単純ですが、相手と向き合い心が繋がる感覚を実感することができ、普段、いかに人としっかり向き合う、繋がることをおろそかにしているかに気付かされる体験でした。

湯川 鶴章 「人工知能と悟りの関係」(講演)

湯川鶴章 テクノロジー・ジャーナリスト

人工知能の最先端が悟りに繋がるという非常にワクワクする講演でした。予測モデルの進化によって未来のことは人工知能が考えてくれる。あらゆる過去のことはデータとして蓄積されていく。お抱えの秘書botが過去と未来のことをやってくれるので、人は今に集中することができる。「人工知能はマインドフルネスを助けてくれるものになる」と言います。

人工知能は意思を持つのか?という問いに対して相当数の専門家に訪ねた結果、どうやらそう簡単に意思を持つようにはならないということがわかったそうです。例えば、botは起業家にはなれない。なぜなら、botは予測によってあらゆるリスクを算出してきます。botにはない自分の意思「自分がやりたいからやるんだ!」という強い意志に気づき、それを実現することが起業家=人間にしかできないことなのだと。

また、AIと共生するにはどうすべきか?という問いに対しては、「人間が進化するしかない」と言います。そうでなければ、競争しあうしかない。また、どっちが正しいという「思考」で争っているうちは、仲直りできない。子供の喧嘩と同じで、「どっちの意見もわかった。じゃあハグして仲直りしよう。」という解決方法も大事ではないかと。人工知能が脅威のように取り上げられることが多い中で、人工知能と人間が共生する未来予想図は、なんだかマインドフルで愛に溢れてた世界なのではないか?と希望が湧いてくる素晴らしいご講演でした。

パネルディスカッション 横田 南嶺、藤田 一照、スティーブン・マーフィ重松 「禅とマインドフルネス、その可能性について」

日本の禅を代表する臨済宗円覚寺派横田管長、現代的なマインドフルネスを代表するスタンフォード大学教授のスティーブン・マーフィ教授、そしてその両方を知るハイブリッドの藤田一照さんという前代未聞の組み合わせは、Zen2.0のフィナーレにふさわしい圧巻のパネルディスカッションとなりました。このディスカッションの凄さは、禅問答的な会話や含蓄に飛んだ絶妙なニュアンスによる即興的な掛け合いにあり、第三者による言語化が不可能に近いものであるということをご了承ください。西洋のよさ、東洋のよさがどちらも現れ、そしてそのどちらも否定するのではなく、お互いに理解し尊重した上で次の次元に向かおうという大変興味深いパネルとなりました。

「日本の禅とアメリカのマインドフルネスはどのような点が異なりますか?」

“アメリカにおいて、狭義のマインドフルネスは「今ここに価値判断をせず集中する」というものであり、これはかなりの要素が抜けています。一方でこの部分を抜き出すことでエビデンスを取りやすくし、科学的に捉えることができるので、多くの人に普及することができました。しかし、私はこのようなあり方を「ビタミンCをサプリメントとして飲むようなものだ」と言っています。禅は玄米のような「ホールフード」であり、生きている生命なのです。禅は体験であり日常です。これは広すぎて簡単に説明したり分析して伝えることがとても難しいものです。”(藤田)

“わたくしどもは昔からおかゆと梅干しを食べています。これは代々ずっと当たり前にやってきていることだからやってきているわけです。今日まではおかゆを美味しく食べる方法は二つしかないと思っていました。一つは出汁や味をつけ加えること。しかしこれは私たちはやりません。二つ目はお腹をすかせること、この二つだけでした。そして今日この場で初めて三つ目があることを教わりました。これは身体にいいことだとか、美容にいいことだとか「意味」を見いだすことです。”(場内笑)(横田)

“禅がアメリカ(大学)にきたとき、「メディテーション」という言葉がNGでした。なぜなら、特定の宗教色が強く、例えばキリスト教の学生が参加できないからです。そのようにして宗教色をなくすことで「マインドフルネス」という言葉になりました。一方で、英語のMindの意味は幅広く、心だけでなく論理的知性なども含まれ、説明として十分でない部分があります。それで私はマインドフルネスからハートフルネス、マインドフルネスからコンパッションという言葉を使うようになっています。”(マーフィー)

「今の世の中に何を見ていますか?」

“学生たちは、ようやくトランプ政権になって「目覚めた」ようです。でもそれは今まで見ないようにしてきただけだったのだと思います。”(マーフィー)

“世の中は、起こるべきことが起こるべくして起きています。世の中はわかりません。流行るものはすたれます。私たちがいつまでマインドフルネスと言っているかもわからないのです。”(会場笑)(藤田)

“私は、地蔵和尚。昔も今も変わらずおかゆをすすってる生きています。これからもずっと変わりません。それが世のやすらぎになれば良いと思っております。”(横田)

おわりに

科学の視点、宗教の視点、アカデミズムの視点、ビジネスの視点など様々な視点から講演や体験セッションが行われました。非常に多方面の方々からバラバラに受け取った情報や体験だったのですが、不思議なことにそれらには全体を通貫する共通のメッセージがあり、そのように感じたのは私だけではなかったと思います。「意識」よりも「無意識」、「考える」より「感じる」、「力」よりも「脱力」、「思考」よりも「体験」、「分断」から「統合」へ・・・

今回のテーマであった禅とマインドフルネスの交叉点。いわば、西洋思想と東洋思想と言う二元論をどう乗り越えていくかと言うことになりますが、双方が習合していく姿というのは、例えば東洋的なホリスティックなアプローチを使って、思考ではなく体験を通じてものごとの理解を深める。そこで「背中で語る」美学で終わらせるのではなく、それを言葉にする努力や多くの人に伝えるための努力を怠らずに西洋的アプローチを駆使して分析、概念化、言語化、広報を行っていくことで多くの人たちに伝えていくことも大切にする。そうすることで全体性の分断や本質の欠如が起こった時に再び東洋的アプローチでそれを取り戻す・・・というように、相互に絡み合いスパイラル的に上昇していくことにこそ新しい次元の未来が出現していく可能性があるのではないかと感じました。

参加者の方からの声にもありましたが、未来から振り返った時にZen2.0が一つの歴史的転換点であったと言えるかもしれません。時代が大きな転換点を迎える中、Zen2.0という存在はその荒波を巧みに乗りこなす一つの指針となって行くものだと感じました。来年以降の開催も検討中ということで、今後の展開が今から楽しみで仕方ありません。

テキスト = 山下 悠一