京都、妙心寺退蔵院・副住職 松山大耕さんを囲んで 。今の時代における、お坊さんの役割とは [前編]

10/28/2017

達成するとか、夢を叶えるといったことと、「幸せ」とは別軸であるということをしっかりと理解する。その上で取り組めば、いろいろなものに惑わされないのではないでしょうか。

── 妙心寺退蔵院・副住職 松山大耕さんをお招きした座談会が、稲村ケ崎のThink Space 鎌倉で行われた。

以前、京都大学の山極総長と京都市長と鼎談したときに、人間の定義という話になりました。
山極総長曰く「人間の定義とは宗教を持っていること」だと。
その心は?と聞きましたら、「人間は生物のなかで、唯一自分が死ぬということを知っている存在である」とおっしゃいました。
これを私なりに解釈しますと、死ぬ間際になって“死”を察知する生物はいますが、人間は5歳くらいから何となく“死”意識しはじめ、10歳には完全に理解します。するとどうなるかというと、死ぬことから逆算するようになります。
そしてそこに不安が生まれる。つまり不安を回避するということが、宗教の役割なのです。

あるお医者さんとお話をした際に、こんなことをおっしゃっていました。
それは、患者さんに「この薬を飲まないと死にますよ」と言っても、あまりちゃんと飲んでくれない。ところが「この薬を飲まないとボケますよ」というと、皆、飲んでくれると。

ブッタは四苦(生老病死)を唱えましたが、“死”は誰しもが経験する最大の苦であり根源ですが、でもその“死”というものが、現代ではまったくリアリティがありません。皆、見えないようにしてしまっている。
つまり今の時代は死ぬということよりも、いかに生きるか、もしくは老いるということに対してものすごく不安を感じているのではないでしょうか。
ですから、お坊さんは死んだ人を相手にするのではなくて、生きている人を相手にしなければならないと思うんです。
その中で、人生の締めくくり方というところに、非常に宗教感が現れるのではないかなと思っています。

昔の禅僧は、皆、辞世の一句を詠んで亡くなっていきましたが、なぜ、死ぬ間際にそんなことができたのでしょうか。
それは、長く生きてきて、いよいよというときになると、食べる元気がなくなり、食べたくもなくなる。となると、食べないし飲みもしない。
すると1週間から10日くらいで自然にすーっと息を引き取っていくのです。
昔の禅僧は自殺はしませんでしたが、自殺行為をして亡くなっていったんだということがわかります。端的に言うと、食べられなくなったら終わり。
そういう人生の締めくくりを選んでいたのです。

翻って現代はと言いますと、心臓を動かせる間は動かしておかなければならないのではとか、罪悪感を感じたりする。
そこに疑問を感じない方が多々いるので、先ほどのような人生の締めくくり方は医療界からはなかなか言いづらい。もちろん政界からも言えません。
だからこそ、宗教界からそういった締めくくり方を、ひとつ提案するべきではないかと私は思っています。
それについて、先日、お話させていただいた円覚寺の横田管長もまったく同じことを考えていらっしゃっいました。
対談のなかで、孤独死の話題になりました。果たして孤独死はいけないことなのか?と。
横田管長があるお医者様とお話をされ、まさにその話題になったそうです。
そのお医者さん曰く、看取りは最終的に医者がするので、色んな看取りをしてきたけれど、「孤独死」と言われる亡くなり方をした人の表情は、不思議と皆、おだやかだったと。

それはなぜかと考えると、「孤独死」というのは、先ほど言いました飲まない食べないというケースで亡くなる割合も高い。
ですから、苦しまずに逝けるのではないでしょうか。前述の山際総長も、生物の一番自然な亡くなり方は餓死だとおしゃっています。
私たちは今、食べ、飲む元気もありますから、このなかで餓死というのは、ものすごくしんどいようなイメージがありますが、本当にずっと生きてきて、いよいよ寿命を迎える段階では、食べない飲まないというのは全く苦ではない。むしろ安楽なんだということなのです。

わたし自身も、一度だけそういう場面に出くわしたことがあります。
あるおじいさんが、意識はあるのだけれど、もうほとんど食べられなくなっていました。
家族が「おじいちゃん、ご飯食べないの?」と聞くと、「ほっといてくれ。今、めっちゃ気持ち良いんだ」と。
するとその2時間後くらいにすーっと息を引き取っていきました。これは見事だなと思いましたね。

孤独死はいけないとか言われていますが、ひとりで死ぬと言うことがいけないのでありません。
一番辛いのは、単独で息を引き取るという状態ではなく、その人のことを想う人が誰もいないということではないでしょうか。
誰にも気にもされずに、無関心な状態で亡くなるのは確かに辛い。
一方で、ひとりで亡くなるとか、家族が知らない間に死んでしまうとか、そういったことを心配をされている方が多いのも事実です。

半年ほど前に、愛媛県の「たんぽぽクリニック」という、日本でも最先端の訪問医療を実践する病院を訪れました。
そこで活躍されている先生に同行させていただき、現場に連れて行ってもらったのですが、そこで先生がおっしゃっていたことがとても印象的でした。

病院にいても死に目に会えないのは7割くらい。
仮に死に目に会えたとしても、ずっと病院に預けっぱなしで、亡くなるときだけ来て『ああ、死に目に立ち会えて良かった』と。
それは単なる自己満足でしかありません。そんなことよりも、ずっと家で看ていて、朝起きたら『ああ、おじいちゃん亡くなっていた』という方がよっぽど自然だし、悪いことは何もない。
もちろん自宅で看取るというのは、心理的な不安やプレッシャーがすごく大きい。それを和らげてあげるのが我々訪問医療従事者の役割なのでは、と。

その先生のお話はもっともですし、それと同時に、一番患者さんと接することの多い看護師さんとの対話であるとか、もちろん受け入れる家族もそうですが、そういう人たちへのケアが今、私たち宗教界に求められている日本の不安の解消の仕方ではないか…、そんなことを横田管長とお話しました。

夢を叶えることは果たして幸せなのか?

最近思うことがありまして。
果たして、目標を達成するとか夢を叶えるということが、人間にとっての幸せなのか、ということです。
スティーブジョブスは、亡くなる半年前に京都に来られましたが、彼は「自分はビジネスでは成功したが、大事なものを忘れていた」と、おっしゃっています。
社会人の方がものすごく不安を抱えたり、精神的に病んでしまうひとつの要因が、私は「目標を達成する=幸せではない」と分かっていないことである思うんです。
仏教というのは、白か黒かといった二元論ではありません。感覚的にはコインの裏表というイメージです。
日が差せば陰るし、温かいところがあれば、冷たいところもある。両者は離せない関係なのです。

つまり、目標達成するとか夢を叶えるということには、必ず裏がある。

よくアスリートの方が「夢は見るものではなく、叶えるものだ」とかおっしゃいますけれど、では夢叶えたアスリートで、人生をトータルで見て幸せだった人はどれくらいいるでしょうか。
すごく大成功されている方でも、その後衰退してしまったり、まったく鳴かず飛ばずの方もいる。そういう人が大半だと思うんです。
タイガーウッズに代表される、夢を叶えて大成功したと思われているアスリートと、三浦カズ選手のように夢は叶わなかったけれど、今もなお現役で活躍できているアスリート、どちらが充実した人生かというと、私はカズ選手の方が圧倒的に充実していると思います。

庭の世界では「造り4割、維持6割」と言われます。
私は海外の講演に行くと、その土地に日本庭園があれば必ず訪れるようにしています。すると、だいたいダメなんです。
なぜならば、造って満足してしまうから。その後の維持の方が余程重要で、大変なのに、それがなされていない。
思うに、もちろん数字や目標がないと、どちらに行ったら良いかわかりませんから、そういう意味ではある程度の目標は必要ですが、それも3−4割くらいで良いと思います。
一方、庭掃除などには終わりがないんです。「ここまでできたら終わり」という完成形がありません。

先日、ある小学生が私のところへ来て、面白い質問してくれました。
「和尚さん、なんで毎日葉っぱが落ちるのに掃除するの?」と。
すごく良い質問だなと思って、その子に聞いたんです。
「じゃあ君は、どうせお腹減るからご飯食べないって言うか?食べるから大きくなって成長するんだよね」と。
それと同じで、毎日葉っぱが落ちてもやり続ける。終わりがない。でもその中に人生の豊かさがある気がするんです。
ですから完成系のない、一生かかっての鍛錬。そういう生き方ができる方が、トータルで見たらすごく豊かなんじゃないかなと思います。

先ほどお話したコインの裏表の話で言うと、目標を達成するとか、夢を叶えるということはエキサイティング。いわゆるfunです。
けれどもエキサイティングなことと幸せは、必ずしもイコールではない。エキサイティングのコインの裏側は、私は不安だと思います。

すごく楽しんでいる、でもその後、ものすごく不安が押し寄せる。その波が非常に大きいのではないでしょうか。
私は、「幸せ=joy」だと思うんです。
この「joy」というのは、やはり人から与えてもらうものですし、自分のなかでじんわりと噛み締めるもの、知足だと考えています。
そしてその「joy」の裏側が「献身」だと。
そういったものの見方、つまり数字を達成するとか、夢を叶えるといったことと、「幸せ」とは別軸であるということをしっかりと理解する。
その上で取り組めば、いろいろなものに惑わされないのではないでしょうか。
私は毎朝、3時間ほど庭掃除をしていますが、それはまったく苦ではなく、豊かになるというか、ある種の喜びでもあります。
表上は庭の掃除をしていますが、実際には心の掃除をしているんですね。

── 座談会は後半、参加者との対話へと続く


松山大耕氏 プロフィール
1978 年京都市生まれ。2003年東京大学大学院 農学生命科学研究科修了。埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2007年より退蔵院副住職。外国人に禅体験を紹介するツアーを企画、外国人記者クラブや各国大使館で講演を多数行うなど、日本文化の発信・交流が高く評価され、2009年5月、観光庁Visit Japan大使に任命される。また、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。2016年『日経ビジネス』誌の「次代を創る100人」に選出され、同年より「日米リーダーシッププログラム」フェローにも就任。2017年より京都造形芸術大学客員教授。2011年には、日本の禅宗を代表してヴァチカンで前ローマ教皇に謁見、2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。2014年世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界各国で宗教の垣根を超えて活動中。

テキスト = 富岡 麻美